管理日記

公共の空間に体格の良い男が寝間着姿でいると、警戒してしまう。場における適切さに頓着しないというワイルドの宣言に受け取れるし、予定になかった外出を余儀なくされての不機嫌さも漂う。このマンションの一階は、他の階より一室少なく、あいた一室分のスペースがエレベーターホールに充てられており、それなりに広い空間に、造花のスタンドと、本物の観葉植物がいくつか、アームチェアが二脚と小さく低いテーブルが一台、置いてある。タオル生地の短パン、同じ素材のシャツを着て、椅子に浅く腰掛け、テーブルの上にサンダル履きの足を投げ出した男からは、防犯カメラ越しの不鮮明な映像でも、不機嫌さが伝わってきた。いざとなったらすぐに暴力を行使するぞ、と意気込んでいるようにも見える。

一階の掃除は終わっていたので、しばらくはホールに近づかないが、一時間に一度行う巡回では、エレベーターを使う。15階まで徒歩では登れない。巡回を省略する、という手はある。巡回しなかったことに気付く人間はいない。しかし、管理業務は、省力化しようと思えば無限に可能であり、必要な一定の歯止めとして、一時間に一回の巡回は必ず行うことにしていた。防犯カメラは、エレベーターにも設置されているから、実際に巡回したかは、事後に検証可能である。その防犯カメラの録画を見ているのが自分一人だとしても。

防犯カメラの録画は、自分が管理を引き継いだ時点で半年間停止していたが、誰も気づいていなかった。全高1.5メートルのラックに詰め込まれた機械からは常に大きなファンの騒音がして、上部のブラウン管モニタが通電しなくても、録画システムとしては稼働しているように思えた。暇なときに(ほぼ常に暇なのだが)、管理室内の資料、最終処分をどう行うか決定されていないため、十何年も無駄に蓄積された、毎日ほとんど同じ内容が記された日報、を読み漁って判明したのは、そのラックの録画システムは10年近く前に故障、映像のソースとなるカメラから切り離されており、映像の記録は、もっとシンプルに、ラックの上に置かれた一台の機器と、隣の机にある液晶モニタに引き継がれていたということである。その新しいシステムもなにかのタイミングでフリーズし、映像の記録は半年前で停止していた。電源スイッチで機器を再起動すると、録画は再開された。それから、建物内各所の、不鮮明な映像のリアルタイムでの監視と、10日程遡っての確認ができるようになったし、不要なラック内の機械をすべて停止した二畳の管理室は、以前よりはるかに静かな環境になった。

管理人室を出ると8畳ほどのエントランス、そこから左へ行けば敷地の外へ、集合型インターホンで自動ドアのロックを解除して右へ行けばエレベータホールだが、パネルでロックを解除するさい左の屋外を見ると、外へ向かう通路の先に男が二人しゃがみこんで携帯電話を覗いている。どちらにも見覚えがなく、住人ではなさそうだが、配達や検針を行う服装をしておらず、なぜそこにとどまっているのかわからない。ロックを解除してエレベーターホールへ入ると、防犯カメラの映像どおり、椅子に男が座っていた。カメラには映っていなかった左脚の大きく鮮やかなタトゥーに目を奪われ、挨拶を躊躇する。

住人に会ったら挨拶するルールにはなっているが、広く真っ直ぐな道でお互いを視認した時点ではまだ距離が遠く、一旦、目を伏せて適切な距離まで近づいたら挨拶する、というような理想的ケースばかりではないから、挨拶を実行するにも刹那の判断が必要となる。いつもこちらの顔をしっかり見て大きな声で挨拶してくる青年には同じやり方で機先を制したり、複数人で楽しく会話をしているようなら会釈で済ませたり、視覚より先に、音でこちらが相手に気づいたら、鉢合わせしないようルートを変更したり。そのために、常に足音が小さくなるように移動している。

この場合、椅子に座る相手の背後から近づく形になるが、自動ドアの開く音に反応してこちらに目を向けたら挨拶しようと決めてドアをくぐると、他人の様子、環境の変化に気を配るような惰弱なことはしないと決めているのか、男は俯いた姿勢のまま全く動かなかったので、防犯カメラを意識した会釈だけ一閃してエレベーターに入る。

建物の高さが45mを超えると消防法、建築基準法の区分が変わり満たすべきルールが厳しくなる、それを避けるため、高さが45m弱、最上階が15階、14階となる建物が多いらしい。だから、たぶん最上階は地上40mくらいだと思われるが、建っている場所自体が台地なのもあり、最上階からは平野の終わり、四方を囲む山まで霞んで見える。毎日何度も、外階段を降りて各階を巡回するので、空の様子に詳しくなった。普段よく轟音を耳にする、旅客機より明らかに低く飛ぶ茶色い飛行機は、街の北にある自衛隊基地から発進し、あたりを巡回して戻るプロペラ双発機であることもわかった。映像で見る戦闘機と異なり、地上から肉眼で見上げる飛行機は遅く小さい。あの、のどかに2機編成で飛ぶ飛行機が、本来の役割で活躍する、そんな時代は決してきて欲しくはないものだが……。

エレベーターホールを避け、玄関から遠回りして管理室に戻ると、寝間着姿の男がホールを出て、管理室の対応窓口へ近づいてきた。玄関口でしゃがみ込んでいた男二人も合流している。もし、いきなり殴られても致命的な打撃とならないよう、できるだけ窓から距離をとれる体勢で窓を開ける。

「ここで駐車場借りてんだけど。一週間で3回も4回も故障して、大抵、夜なんだけど、そのたびに朝まで待ってんだけど。鍵が取れなかったり、故障して上に上がってこなかったり。まともに動くところに交換してくれない? あと、故障してるから仕方なく前の空いてる駐車場に停めておいたら、違法駐車だから駐車料金払えって貼り紙はられて。ああいうのも気分悪いからやめて。じゃあ、それでコインパークに停めたら金払ってくれんの?」

機械式駐車場の契約についてはもちろんなんの手続きもできないので、サポートデスクの電話番号を案内して、窓を閉めると、寝間着の男はまたエレベーターホールへ、他の二人は屋外の通路へ戻る。今日も暑く、通路には陽もあたる。全員、エアコンで空気が調整されているホールにいればよいと思うが、何かしら力の勾配があるのか、決まったフォーメーションを崩さないようだ。

一旦、気持ちを落ち着けるために、毎日同じ内容で埋める日報をフリクションボールペンで記入していると、また、窓をコンコンと叩く音がし、別の男が二人立っている。どちらか片方でいいと思うのだが、二人共、警察手帳をこちらに提示している。

住民からなんらかの苦情を寄せられたり、配達などでドアを開けてほしい、といった用事で話しかけられる、というのはだいたい週に一回程度あるが、一日に二回というのは初めてで、相当に珍しい。ただ、警察官がくるのはこの一年で五回目であり、それほど珍しくはない。

片方の警察官(刑事?)は、一ヶ月ほど前に、駐車場の車をレッカー車で運んでいった際にも会った。その後も一度、この建物内のどこかにあるはずの鍵を探して、再度、訪れている。その鍵は、エレベーターホールか、駐車場に落ちているはずであるらしく、落とし物は管理室に届けられるのか? 最近、鍵の落とし物を拾っていないか? ホールにあるゴミ箱はいつ中身を空けているのか? などを確認された。その鍵はなにかの証拠なのかもしれない。それとも、警察でさえ、その物理的な鍵がなければ、開けられない扉があるのだろうか?なんらかの、次なる 進化への扉であるとか。

「今回は立体駐車場の鍵を借りてきたんで、ちょっと駐車場の上げ下げしたりするんでご協力願えますか。このドアが鍵じゃあかないと思うんで、駐車場まで一緒に来てもらっていいですか。あと、この間、うかがった、署に届けられたっていう落とし物は、戻って確認したんですけど、すぐ返却されたのかありませんでした」

よくわからない男たちに前後を包囲された状態で管理室にいるのが苦痛だったので、喜んで付いていく。エレベーターホールを抜けて、駐車場へ行き、レッカーした車が置いてあった場所で、また鍵を探す警官を眺める。

「落ちてるとしたらこっちですかね?」「ここから回って助手席に入ったってことだから、こっち側だよ」「管理人さん、これ中に人が入ったまま下に降ろしても大丈夫ですかね?」と聞かれるが、その昇降式の駐車場を使ったことがないのでわからない。ただ、車が潰れないということは人間が乗っていても潰れることなはないのではないですかね、と答えると、一人が乗り込んだ状態で昇降機を動かし、地下のスペースでも鍵を探す。鍵は見つからない。

次は、エレベーターホールをさがすという。非常に熱心に鍵を探しているが、なぜか、防犯カメラはチェックしていない。録画は10日ほどしか残らないので、もう手遅れだが、車をレッカーした時点で調べていれば間に合ったのではないだろうか? 警察には、別件で録画を提出しているので、カメラについて把握しているはずである。あのマンションにはこのようなカメラがある、こちらのビルには3年分の録画が残されている、そんな情報を県警内で共有するデータベースがあったらとても便利ではないだろうか? どんなに賢い犯罪者も、そのように便利に整備された防犯カメラ群からは逃れられない。時間と場所を指定しただけで、最寄りのカメラで撮影された映像が即座にモニタへ映し出され、容疑者の精神状態までわかりやすいアイコンで表示される。そんな全く新しい捜査の様子を想像するが、決してそのような社会を歓迎しているわけではない……。

エレベーターホールに戻ると、警官二人と寝巻き姿の男が鉢合わせすることになったが、そこでなにか期待してような化学反応は起きなかった。何度も探しているので当然だが、鍵も見つからない。脚立があれば、天井の棚のようになっているところも調べられるのに、脚立ありますか? なければ、今度は脚立をもってきます、と一人の警官はいい、絶対にこの証拠は逃さない、執念と足で鍵を見つけてみせるという決意を新たにしたかのような表情を見せて去っていった。

昼近くになり、管理を終了する準備をしていると、寝間着姿の男と、玄関先に居た男二人が、到着したトラックから荷物をおろし、運び入れ始めた。手配の手際の悪い引っ越しであったということがわかり、これ以上の接点が発生しないよう、急いで立ち去る。