心の外部化について
感情労働という概念があることを知ったので、プログラマはこころ労働だということにしたい。心と体で考えるなら体は随分と外部化が進んでおり、たとえば、肘の調子が悪くて良いストレートが投げられないときなどには、この肘め!! 痛むな!! と半分くらい肘の責任にしながら投げている。僕は腕も千切れよと投げたいのだけど肘がそれを許さない。僕の肘が消耗品なのと同じように、僕の心(と全ての男)も消耗品なので、それに適切な語彙を割り当てるべきで、今度からはこのように考えたい。
エクセルを開いては閉じる単調な作業がどうしても続けられなくなった。面倒になったので続けられない、なぜかサボってしまう、と捉えれば自分の責任だが、クリックのしすぎで心が折れたので続けられない、と考えれば、クリックのしすぎでいきなり右腕が折れたので続けられない、のと同じくらいには自分の責任でない。クリックのしすぎで心が折れるというのは、僕にはどうしようもないことです。人間の心は何千回ものクリックに耐えるようデザインされていない。つらいので僕にはできない、のではなく、心が骨折したり、向上心が転倒したり、モラルが脱臼、捻挫したので、続けられない。ゆくゆくは、どうも、俺がいるのかいないのかわからん、最近は調子がいいらしい、まぁどうでもいいことだが、となるくらいまで心から離れたい。
実際にはなかなか難しいことですが、適切な語彙を割り当てることにより、存在しない圧力を取り除いたりできるかもしれない。そういうレベルでの自分に対するささやき戦術です。心が折れたので続けられません、と上司に言わないこと。なぜなら、心が折れる、はなぜか普及しているので逆に恥ずかしい言い回しになりそうなので。心が腱鞘炎になった、などがよい。