水泳について

無性に日記を書きたい気分ですが、書く事がないので水泳について書きます。このような断りは本来必要ない、思う存分水泳について書けばいいわけです。体が水に浮く原理からしてよく理解できない、とか。しかし、こう前置きしておかないと、なにやら本気で日記を書いているのでは? と思われてしまうのが恐ろしいので、つい、書いてしまいました。そして消しません。
多数の人に読んでもらおうとするなら当然するべき努力をあからさまに放棄するような態度を、なぜ人はとってしまうのか、については、以前から興味があります。たとえば、日記のタイトルに「雑記」とつけるような態度についてです。誰も好き好んで雑記を読みたいとは思わないはずです。これは、当然するべき努力をしているような雰囲気を出してしまうと、そこにある日記が苦闘の末に書かれたものであり、日記能力の上限だと見なされてしまうのが嫌だからだろう、と推測しています。誰でも、自分の能力が見切られるのは嫌なものです。先ほどの前置きも、同様の心理のもとにまずなされました。このような心配は、たまにしか日記を書かなくなってからますます身近な問題としてクローズアップされています。時々しか日記を書いていないのに、わざわざ水泳について書いているのだから、よほど水泳が好きなのだろう、とか。冗談ではない、という話です。僕はそれほど水泳を好いていません。日記を書く以上は努力をして良い日記にしたいという気持ちは持っていますが、どうすれば良い日記になるのかはわかりません。読み直しや、誤字に対する注意はそれなりに払っているつもりです。
このような説明ではなく、日記を書くのに至った経緯自体を日記に組み込む手法も良くみられます。たとえば、今日、夫とサブプライム問題について話をしたので、サブプライム問題について書いてみるわ、というようなテクニックです。テレビで見たから、でも構いません。なんの前置きもなくサブプライム問題について書いたら余程の経済好きに見えますが、夫と話したのなら仕方ないな、という気分になります。しかし、僕はこの手法があまり好きではありません。理由はよくわかりませんが、この手法を利用している人には、この手法の効果に対する自覚があまり見られない気がするからです。ニュース(単一のURL)に対するリアクションとして日記を書くのも同様です。いま、mixiニュースで社会問題について書いている人はたいていあれだ、というひどい悪口を書きそうになりましたが、恐ろしいので止めます。直接的な悪口はかけませんが、なんとかして態度で示したい。たとえば、全ての日記の一段落目に「今晩の献立を考えているときにふと思ったんだけど……」とつけるような皮肉でmixiニュースに対する憎悪を示したいと思っています。
これくらいで、僕の水泳日記に対するテンションが正確に伝わっていると良いのですが……。水泳にはここ二ヶ月ほど取り組んでいます。といっても、せいぜい週に一回プールにいくだけです。水泳は小学校低学年のころ教室に通っており、その後は学校の授業でしか接する機会がありませんでした。水泳に再会してまず驚いたのは、全然続けて泳げないことです。中学生のころは、平泳ぎなら何百メートルでも続けて泳げるだろ、と思っていた記憶があるのですが、いまは100mも泳ぐと苦しくなってしまいます。ただ、問題なのは、中学生のころ実際に続けて1kmとか泳いだ記憶があるわけではない、ということです。水泳の授業ではそれほど一人の人間が続けて泳ぐ機会がありませんでした。だから、単に、少年特有の全能感でもって、何kmでも泳げる、と思い込んでいただけで、実際は泳げなかったのかもしれません。真偽を確かめることは永遠に出来そうにないのが残念です……。注目している泳ぎ方は背泳ぎです。背泳ぎは息継ぎが必要ないので、いつまででも泳げそうなところが気に入っています。背泳ぎは苦しくないですが、同じ量移動しているのだから他の泳ぎ方とそれほどカロリー消費は変わらないのでは? とにらんでいますが、それだとクロールの苦しさがあまりに悲惨すぎるので、違うかもしれないな、と思っています。水泳中は音楽を聴く事が出来ないので、主にそういうことを考えています。水泳中にそういうことを考えていたのでたまたまこういう日記を書きました。