鏡について
「よしっ! 今日もかわいいぞ!」
全身鏡に向かって呟く。バカみたいだが、これは自分で試して唯一効果が実感出来たライフハックだ。主な効能は、自分に自信が持てることだという。もちろん、笑顔で呟く。笑顔は自然に浮かんでくるのではなく、作り出すものだとわかった。実際、どんな場面でも自在に笑顔を繰り出すことが出来れば、強力な武器になるだろう。人間関係が希薄な現代社会では、笑顔を覗かせるのにわずかな機会も見逃すわけにはいかない。だらだらと続くだけで何の進展もない会議の最中、ふと目のあった対面の男がにやりと笑顔を見せたらとても平静ではいられない。このような笑顔に好印象を抱くことはあり得ない。むしろ、こいつには今後一切表情を変えないで対応しようと堅く心に誓わずにはいられないし、それをやり遂げるだけの自信もある。
表情はともかく、今日はシャツの柄が気に入らなかった。もし、そのシャツを友人が着ていたら、「そんなシャツを着てくるなんて、いったいなにがあったっていうんだ!?」と尋ねただろうけど、自分が着ていたのだから「そんなシャツを着てくるなんて、いったいなにがあったっていうんだ!?」と自問するしかない。急いでシャツを脱ぐために、裾を持ってガッと捲り上げたが、それはTシャツではなくワイシャツだったので、脱ぎきることなく中断を余儀なくされた。サッカーでゴールを決めた選手がシャツを捲り上げて顔を覆った状態で走り回っているのを見る機会があるが、あれは喜びからではなく、恐怖からではないか? と気付いた。前が見えない状態というのはとても恐ろしいからだ。加えて、足元は床でなくベッドだからとても不安定だし、前日はひぐらしのなく頃にが怖すぎて電気を消さずに寝るような精神状態だったから、周りが見えないまま鏡の前に立ちつくしているのはとてつもなく恐ろしかった。あわてて後ろを振り返った拍子にスプリングを踏み抜いたような感触があって、そのまま転倒した。