頭、脳、に続き、どこを鍛えるかについて
『頭の体操』シリーズが出版されたのが1966年、脳トレブームが2005年あたりからだから、40年かかって、「頭を鍛える」、より、「脳を鍛える」、の方が正確なんじゃないの? 頭じゃなくて、直接、脳を鍛えた方が俺の知能に効くような気がするぜ!! と啓蒙されたわけなので、次の四十年でどこを鍛えるべきかを考えたい。
頭、というのは、人間を外部から観察した際に形状として区別できる部位のことであり、脳というのはある機能をつかさどる部位であるという印象があって、まぁ、脳だって頭蓋骨を割れば形状として区別できるんだろうけどそういう機会はあまりなく、人間のぱっと見じゃ脳があるかどうか分んないからそれだけ正確じゃない? という印象は与えられる。腕の筋肉に効く、と説明されるより、上腕二頭筋に効く、と説明される方が本当っぽい。そういう意味では、まず一つには、頭 → 脳 → 前頭葉 or 右・左脳、を鍛える、という線がある。頭 → 脳 → シナプス、という線も考えられる。シナプスを鍛えて反応速度を上げる!! とか。どうやって鍛えるかというと反復する。あとはクオリアとか。クオリアを鍛えるトレーニングなら今だしても超売れそう。どうやって鍛えるのかは知らない。
メタ認知を鍛える!! もすでに受け入れられる素地があるかもしれない。今、続きを書こうと思ってイーガンの『決断者』を読みなおしました。『決断者』はほんとうにおもしろい小説で、『放浪者の軌道』と並んでインナーな感じのやつでは好きですので読んでみてください。そしてどこを鍛えるかはどうでもよくなったのでもうそのことについては考えません。かわりに、今、意識に対して持っているイメージを書きます。決断者がいないのはよくわかりました(わかってません)。でも僕の頭の中には消しゴムと言葉の羅列が常にあるので、これはなんなのか、という疑問は残った。外部とのインターフェースとして言葉が生まれるのは全然不思議でないので、言葉ができて、それをつかさどる機能も発達したと。内部にいろいろなプロセスがおり、長期的な目標とか、モラルとか、ゲームのやりたさとかを司っているとして、それらが相互にやり取りするために、名前付きパイプなり、共有メモリなりを使うかもしれないし、ファイルであるかもしれない、ということがあるわけだけど、言語を使う部分を利用する可能性もある。つまり外部に入出力するためのインターフェースとしてできたけど、機能が豊富なので内部でのやり取りにも使う。デバッグ用のログみたいなものがそれぞれのプロセスから監視されているのが意識ではないのかなぁ、というイメージ。