S > Fマガジンと幸せについて
これこれ、これがまさに幸せちゃうん? と思わざるを得ない状態を私はすでに経験しているので、"他の物全てが色褪せるくらい素晴らしい体験をする機会"というのは存在していない、ということを知っている(間違っているかもだが"知っている")。もしそれを超える事態が訪れるとしたら、現時点ではそれを神秘体験と呼ぶしかない、つまり酸欠などによって引き起こされているわけだが、酸欠では到底それに及ばないことも知っているので、つまり短期的な幸せ量で言えば限界を見たと思っている。今まで観察した分では年を経るに従って短期的な幸せ感受性は徐々に低下していくので、現時点での幸せ限界がずっと幸せ限界であり続けるだろう、現在の最大値を記録した時点では私はまだ箸が転がってもおかしい年頃だった。ちなみに今でも箸が転がったら面白がると思いますが、ほぼ100%割り箸を使用しているため箸が転がることはありえません。
最大値についてはそういうことで超えることが出来なさそうである、と思っているがそれに近い状態には簡単になれる、とは思っている、思っているが色々な理由があってそれはしない。ところで、S > Fマガジンの創刊600号記念特大号にイーガンの短編が載っていたので購入した。記念特大号はなんと2400円もするのである。私はいつも目当ての短編一つのためにS > Fマガジンを買い、それ以外の部分は全く読んでいないのですが、これはさすがにもったいないと思ったので今回は1ページ目から全ての記事を読んでいる。そうすると、オールタイム・ベストSFというものが掲載されており、短編部門一位が「しあわせの理由」だった。ちなみにこれは6ページ目なので私は表紙から読み始めてすぐこの部分に辿り着きました。「しあわせの理由」に関して覚えていることは非常に少ないが、「しあわせの理由」を推した人はおそらく私と同じ問題に興味があるはずである。同じ事を考えている人が沢山いる、というのはとても悔しい事態である。その問題というのは、人間は幸せになるためになんか色々するが、幸せだと感じる条件は色々なので、手っ取り早く幸せになるには、幸せだと感じる条件の方を変更してしまうことなのだ、というと、出世街道諦めて趣味(釣りなど)に生きるとかそういう話じゃん? ということになるわけだが、そうではなくもっと電子的なガジェットとかで私はそれをやりたいわけです。なんか現時点ではよく良さが分からない趣味とかじゃなくて。何故ならそういう趣味を幸せに繋げるには相応な努力がいるわけで、そういう努力を物ともせずに趣味を幸せに繋げられるような性格にまずならなければいけないわけで、性格 > 釣り > 幸せ とかなり信じがたいほど幸せが遠のいている。もっとなんとかならんのか。という過程で考えると、私は全く私自身の制御が出来ていない、ほとんどなにも決定できない、これは悔しい、よし、自己啓発だ、となるわけだ。が、その点イーガンの小説に出てくる人たちは驚くほど自由であり、なぜか毎回異常に世界の基本原理に対して興味を示しそれが行動原理になるのがよく分からないが、素晴らしい。と思う。そういうところが好きだ。しかし、自分の嗜好や方向性を根本から自由に変更できる存在、の描き方に納得しているかというとそうでもない。というのは、ある方向に行動する動機が少しでもあれば、ループバックしてどんどん動機が大きくなってしまうのではないかなぁ、とか、だからある程度、最初に枠組みを決めてしまってやはりパラメータをいじる程度にしておくのかも知れない。でも、少しでもそれをはずそうと思ったらはずせるのだからやっぱりすぐ袋小路に行ってしまうのではないだろうか、とか、そういうことを考え始めると恐ろしく楽しいので、そういう心理系スタンドバトル(相手を袋小路に追い込んで殺す)みたいな小説を書きSF大賞に応募します。