はてなの思い出

僕にとってはてなといえば「死霊」です。丁度はてなダイアリーをはじめた頃に読みだし、いまだに読んでいます。いまは七を読んでいます。浅羽通明さんの「アナーキズム」に出てきたので読みかけになっていたのを思い出しました。
アナーキズム、P134

私は何者でもありえたのに、なぜ今ここにいる「私」でしかないのか、と……。この疑問は「自動律の不快」と名付けられ彼の小説『死霊』(講談社)最大のテーマとなる。

この発想はおたく世代に人気の哲学者永井均が、『<子ども>のための哲学』(講談社現代新書、一九九六年)などで提示した視点とやや通じている。

おたく世代に人気の哲学者……。

ちなみに永井は、少年期にSFにインスパイアされ、大学時代はアナーキストだったという。私が帯びている固有性−−生年月日や両親、身体、能力、社会的位置……−−の全てすら、互換可能なものとしてしまうこうした見方からは、永井の意図にかかわらず、生活者である自分に重きをおかない思想が派生しやすい。

永井さんとSF小説グレッグ・イーガンさんの見方が似ている、というのはよく目にする、というか読めば一発で分かりますか……。
死霊 七 P76

それまでも俺はガラリヤ湖の多くの魚のなかで最も理屈っぽい異論をつねに果てしなくとなえる異端の魚として知られていたが、いいかな、イエス、お前の不幸は、お前に食われた「すべての生物」のなかで最後まで酷しい理屈を手放さぬこの俺を生の悲哀の翳だにない飢えた心だけもって食ったため、その俺にまずここで弾劾されることになったことだ。

これは独在性や自動律の不快とは全く関係が無く、単に面白い文章を引用しただけです……。