そういうわけで日記の才は無い、ひいては文章に関する才も無い事がわかったので、暫くは漫才の勉強に専念したいです。M-1(優勝賞金:1000万)に出場する為に必要な相方も予約/確保しました。小学生で既にしてコンビを結成していたという、いわばお笑い経験者の方なので、突っ込み兼リーダーをお願いしました。「漫才はコントと違って演技力が要らないから簡単そう」と世の中を舐めきった発言をしていたので非常に頼もしいです。ネタ作りは僕が担当するので、ギャラは6:4という契約です。ただ、僕が漫才に関しても全くの未経験者、恐らく鑑賞に費やした時間すら同年代の日本人平均を遥かに下回るレベルなので実力に関して不安があるらしく、まず先にネタを作れ、といわれました。その出来如何でコンビを結成するかどうか正式に決定するそうです。今日からここは日記ではなく、僕が漫才のネタを考える場所にします。
漫才の台本を書くとき正式にはどのような手順を踏むべきなのか、サラリーマン私はそれをつまびらかにしません。会話で、かつ、面白ければ良いんだろう、から、最近面白いと思った文章を無理矢理会話化する方法で書きたいと思います。以下、最近特に面白いと思った文章の引用です。蓮實重彦さんの「スポーツ批評宣言 あるいは運動の擁護」内『捕手は二領域を自由に往復する道化たる自覚を忘れてはいけない』から。

捕手は他界に住まう人だ。ベースボールにあっての他界とは、もちろんファウル・ラインの外側を意味している。そこに落下したボールがゲームを中断させるしかない外部である。あらゆるプレーヤーの中で、キャッチャーだけが直角に交叉する二本のファウル・ラインの外側に守備位置を持つ。彼は、だから、二重の外部に住まっているのだ。そのことに意識的でない選手にキャッチャーはつとまらない。阪神いらいの若菜は、内部への未練を断ち切れずにひたすら捕手を失格しつづけている。
味方の野手たちにとって、捕手は、文字通り外部の存在である。そのことだけでも薄気味悪いはずなのだが、あろうことか、あらゆる捕手は仮面で素顔を隠したまま、まるでカーニヴァルに浮かれた身元の知れぬ男女のように、投手と真正面から向いあうことになる。しかも、彼らだけが、味方の野手たち全員をつぶさに観察しうる特権の持ち主なのだ。捕手は、ミシェル・フーコーのいう一望監視装置の看守みたいに、見られずしてすべてを見ている絶対の権力者なのである。

長く引用しすぎました。これは冒頭部分です。このあともずっとこの調子で面白く続きます。突っ込みの人が普通にネタ振りをするのに無視してこのような事を喋りつづける漫才というのはどうでしょうか。問題は、僕にこのような文章を書く能力がない、という事なのでその辺はまた考えます。