中原昌也さんの小説がすごい面白い

すごいいまさらなのかも知れませんが、新しい短編集の良い噂を沢山聞いたので、書店で見つけられた中から古い順に読んでいます。古い順に読んでいるのは、昔から読んでいる人と全く違う感想をいだいてしまい迫害されるのを避けるためです。進歩信奉者なので新しいものがより優れているはず、であるなら優れていないものから順に読んでいきたい、というのもあります。そうすることによって、同一人物の手による作品を続けて読むことによって生じる慣れ、と、進歩の成果が相殺され、安定して面白く読めるのではないか? というわけです。「ノルウェーの森 1」と「ノルウェーの森 2」のような続き物であったら、2を先に読んでから1を読むと全く意味がわからない展開になってしまう、というのも古い作品から順に読む理由の一つです。
著者初の小説では、単行本に添えられた惹句が購入の決め手でした。小西康陽さん、小山田圭吾さん他、各界の著名人による強力な推薦。おもわず買う気のない本を手に取ってしまいます。そのまま裏返すと推薦の本文が。石川忠司氏「本の形をした踏み絵也。解からねぇ奴は首くくれ。」踏み絵なので解らなかったら首をくくれ、というのは暴力的に一貫した喩えで素晴らしいと思います。そのままです。そのまま也。清水アリカ氏「これを読んだら、もう死んでもいい」これは、もう読んだのかまだ読んでいないのか解らないところが面白いと思います。おそらく推薦しているのだからもう読んでいるのでしょう、つまり清水さんはもう死んでも良い、のだな。と思いました(それとも、この本を読んだらおまえはもう死んでも良いよ、という意味なのでしょうか)。どちらにせよ、死の臭いがつきまとう初の短編集はとても楽しく読めました。
長編は一つ読みました。こちらはその解説に自尊心をくすぐられる仕掛けになっています。

絶望はむろん、ここでもまた「現代」において小説を書くことをめぐる鋭利な認識に由来しよう。それは短編の場合より、いっそう強く働いている。というのも、中原昌也が本作であからさまに意識したとおぼしきロブ=グリエを「旗頭」に、一九五〇年代から七〇年代にかけてフランス文学を席巻した観のある「ヌーヴォー・ロマン」は、プルーストカフカジョイス、フォークナーなどの後に、なお新たな小説を書くことの不可能生じたいを糧とした壮大な(質量両面において多分最後の?)試みとしてあったからだ。

「旗頭(はたがしら)」。私はこの長編小説に仕掛けがあるのか、ないのか、まったくわかりませんでした。全編を貫くストーリーというものがあったとしてもそれを全然追えませんでした。中学生の頃、星新一さんの小説に全く普段のキレのあるオチが登場しないので困惑しながら読み進めていったら、実は長編小説だった、という経験をしたことがありますが、ある意味それに似ています。混乱を抜けて最後の解説まで辿り着いたら輪をかけて混乱させられるこの解説。