『クオリア降臨』を読んで(2)

飛行機に乗っている時に、隣に座ったモデルのように美しいフランス人の少女が、いきなり私にエヴィアンのスプレーを吹きかけたことがある。「ほら、こうやると、とてもキモチいいのよ」。少女の生と、私の生の潮流とは関係のないところで、一瞬の夕凪が生じ、その時私は何やら天上的なるものの気配を感じたような気がした。

ここは何回読んでも面白い。僕が読みたい面白日記はこういう路線だと思う。基本真剣で、交流をせず、頑張って書いているし実際そう見えるが一部に、どう解釈してもまじめな顔では書けないような文章がしれっと紛れ込んでいるような日記。私は自分の目指す面白日記に向けてかなりまじめに頑張っているのでもっと評価されて良いはずだ。
前回今回二度引用したこの文章の面白さについて解説したいです。僕が受けた印象を正確に伝えることは出来ないですが、そう努力するのは私にとって楽しい(私はこんな些細なことでおもしろがれる人間やで!! という主張)からです。まず、飛行機の中で脈絡無く美少女に出会う、という小説を私は読んだことがある、それも何度か読んだことがある、と思い、それが面白かったです。文学論がいきなり小説に! しかし、頑張って思い出そうとしましたが一冊しか思い出せなかったので、実際には一冊しかそのような小説は読んでいないと思います。その小説に従うならば、この少女は20歳を超えるくらいで今の輝きを失ってしまうはずです。正確に言うと、失ってしまうんではないかなぁ、と主人公が想像します。
次にもっと細かく見ていきます。「モデルのように美しいフランス人の少女」。フランス人の少女はみんなモデルみたいだと思ってるんじゃん? あるいは、モデルのように美しいかまたはフランス人形の様に可愛らしいと思ってるんちゃうん? と思わせる安易さ、実際にはたまたま隣に座ったフランス人の少女がモデルのように美しかったのでしょうがないのかな、とは思いますけど。"美しさ"と"モデル"の直結感が素晴らしい。エヴィアンの下りはまぁそういうこともあるかな、ラッキーやな、という感じでやはりハイライトは、一瞬の夕凪だなぁ。この夕凪は本当に全く何の関係もなくその時どっかで生じた、だけ。いや、違うか。"生の潮流"というのは"人生の本筋"を表していて、今いるところ、"飛行機" == "少女の生と、私の生の潮流とは関係のないところ" == "天上"(美濃輪育久さん言うところの"ヘヴン")なのかな。"夕凪"と"潮流"だし。"飛行機"が"天上的"なのも計算なのだろうか。「ほら、こうやると、とてもキモチいいのよ」と少女に言わせるのも計算なのだろうか。しかしそうするとますます、"モデルのように美しい"という形容の投げやりさが浮き立つのですが。難しいなぁ。まぁ、今の解釈はともかくとして、最初に読んだ時、なぜ全く関係のない夕凪がここで触れられるのか、そんなことを書いてないで天上的なるものの気配について感じた気がするだけじゃなくて、もっとちゃんと確かめた方が良いのでは? と思いました。