永遠に閉ざされし言の葉達へ

詩作であり、また思索でもある俺の時間は終わりを告げて、電気仕掛けの車両は穏やかな響きとともに駅舎に刺しこまれる。観光地でもない田舎街に昼の内から訪れる者など皆無であって、ホームに降りた瞬間からまた独り、揺れながら消えていく思惑を掴むための猟に勤しむのであった。
そのまま我を忘れてホームに立ち尽くした俺を駅員はどんな目で見つめていたのだろうか。とにかく、俺が我に帰ったときには駅員は手旗を掲げた蝋人形のように夏の光の中で立ちすくみ、そのまま溶けてしまいやしないか心配になったものだ。
「こんちは」
駅員に挨拶したが、蝋人形と化した駅員に届くはずも無く、無言を以って返事と為すはめになった。
古びた線路に強い日差しが踊り、遥か遠くに見えた山々はいまや蒼い生気を持って間近に屹立している。久しく感じなかった木々と土の匂いが忘れていた目的を想起させる。光に慣れすぎた目には階段がとても暗く、どこまでも地面の奥深くに続いていくように見えた。暗闇を通り抜け、ホームを離れて、街へ向かう。過去の綻びを繕い、過ちを正すために。
閉じ込められた言葉達と、ここではないどこかに旅立っていった者へ。

駅前では三台の黄色いタクシーが客引きをしていた。小さな商店街と、2軒のファーストフード。駅舎に沿って続く路、右か左、どちらに進もうか決めかねていると、桂香仙子が俺の右肩後ろに出現した。細い銀色の毛が首筋をくすぐる。桂香仙子によれば、東から妖しい空気が流れてくるとの事で、彼女の鼻を信じて東へ向かう事にした。
「その空気、発生元は近そうか? 出来れば今日中に手がかりだけでも見つけたいものだが」
「なかなかに悲壮な匂いだが、とても微かでコン。まぁ方角は間違いなかろうコン」
桂香仙子は二股に分かれた尾の一方を俺の首に巻きつけ、ゆらゆらと風船のように揺れている。普段と違い、桂香仙子はあまり標的について詳しく語ってくれていない。
「その、悲壮な匂いを放つ『閉じ込められた言葉』とやらは、どんな形態をとっている?今も語り継がれる童話なのか、日々の会話の中に在るのか、倉庫で独り眠るテープなのか、或は携帯に録音された聞かれることの無いメッセージなのか」
「そこまではわからない。そもそも、それを調べるのが君の仕事だろう。まぁ、何か気付いたら教えるから、街行く人に話でも聴きながら言われたとおりに東を目指すが良いさ」
今日の桂香仙子はえらく傲慢であった。一見幼くも見える小柄な猫のような姿をしているが、彼女は俺よりもだいぶ年上のはずである。もともとの生まれが昆明のあたりで、大麻儒教が大好きな桂香仙子にとっては、年下の俺など喋る幽波紋程度の存在であるようだった。雇い主でもある彼女に逆らってもいい事は無い。俺は諦めて東へ歩き出した。

冷房暮らしに慣れた体に夏の日差しはつらくあたり、蠢く闘気もないのに景色が歪んで見える。駅を出て数分のうちに俺の体は限界を感じ始めていた。蝉の鳴き声が一斉に止み、全くの無音となった路に少し違和感を感じる。
ざわざわ、ざわざわ
急に視界が暗くなり、俺は驚いて足を止めた。手と舌に軽い痺れが走り、思わず膝が落ちかける。必死に電柱を掴んで姿勢を保った。俺達以外には誰もいなかったはずの路に、何者かのたてる囁きが広がる。振り返ると、そこには一人、男が立っていた。
高架の下をおぼつかない足取りで歩むその男、年の頃なら四十路を越えて中盤に差し掛かる程だろうが、その顔に刻まれた皺と、染み付いた汚れは彼を酷く老いて見せている。彼は暑いさなかに青い作業着で身を包み、何者かと会話していた。彼の相手を務める人物、俺にはその人物を見ることが出来ないのでそれが人物であるかどうか判然としないのだが、は寡黙な性質であるらしく、男は一方的に話し続けている。俺は軽い恐怖を覚え、桂香仙子に話し掛けた。
「仙子、君にはあの男の話相手が見えるか?」
「無論見えるさ。彼は臓腑に棲み着き彼を喰い散らかす亡霊共と話しているのだよ」
仙子の言う事は良く分からなかった。俺は一刻も早くここを立ち去りたいのだが、そう出来ないのは男が有力な容疑者であるからだ。雇い主の前で手がかりを見過ごすわけには行かない。今回の目標は、閉ざされた言葉。
「では、彼の言葉は閉ざされているとはいえないのだろうか? その、相手がいるのならば」
「君は簡単に答えを求めすぎる。自分で近付いて確かめてみれば良いだろう」
気が進まないが仕方がない。一旦彼をやり過ごすと、黙って後ろから近寄り、暫く彼の言葉に耳を傾けた。彼の言葉はアルコール臭と濁った響きをまとっていたが、高僧の祈祷のように俺の耳に吸い込まれる。
「ああ、そう、俺は体育祭を休んだよ。お前がなぁ、お前が、だが俺は小学校の演劇じゃ主役だったし、体育の成績だって一度も負けた事がねぇ……ありゃあすごかった……」
それは彼がまだ学生だった頃の記憶、まだ歯車の歯として固まっていた頃。彼の言葉は生々しかったが、しかし、それを聞くものは誰も居なかったはずだ。俺には彼の言葉が生きているとは思えなかった。もし、彼が言葉を殺しているのなら、彼は罪を償わねばならない。殺すという事は、その存在を閉じきる事に他ならないのだから。そのために、もう少し、彼の言葉を掬う事にした。
強い日差しの中、男の独り語りは続く。俺だけでなく、桂香仙子も黙って男の後に付いて来た。彼は高校を中退したらしい。同級生との間に子供が出来てしまったからだ。彼は若い妻と子供のために必死で働いたが、本の仕分けはあまり良い稼ぎを生まず、段々酒に溺れていった。子供が三歳になる頃、彼が小児用風邪薬でキマっている間に妻は子供を連れて出て行ってしまった。それから彼は全てを失っていき、故郷を棄てて、この街にたどり着いた。現在は一介の勝負師として主に公営ギャンブル場を中心に活躍しているそうだ。
彼の物語は忘れがたき名勝負へとシフトしていった。ラジオの実況中継模写として現れたそれは、非常に巧みなものであり一種の芸と呼べるレベルであった。追うものと追われるもの。風を通じて行われる熱い駆け引き。最後の直線での抜き差しならぬ様子は、競輪について全くの無知である桂香仙子すらも感動させたようだ。俺達は彼の追跡を中止した。

少しずつ小さくなって行く男の背中を眺めながら浮いている桂香仙子に俺は言った。
「分かったよ、仙子。彼の言葉は閉ざされてなどいない。俺の胸に確かに届いたからだ」
それは一旦掴んだと思った手がかりを諦めるという事だったが、俺は全く落胆しなかった。それよりも大きなものを彼から貰ったかのだから。
「そう。たとえ我々のような観察者がいなかったとしても、彼の言葉は彼の中で巡り続ける。それは一種の閉塞状況にも見えるけれど、内部では目を見張る精神の無限軌道があらゆる現実を打ち砕いて彼の征くべき道を均しつづけている。彼の神経を支えているのはあの言葉達なのだよ。閉ざされてなどいるものか」
かの男に再び視線を戻すと、水兵のような服を着た女子の集団に行く手を阻まれ、行き場を失った背中が寂しく揺れている。
「願わくば、天忍穂耳神が彼の言葉に耳を傾けん事を」
俺の願いが届いたのかどうか、男は女子の集団を切り抜けたようだ。女子の集団はこちらに近付いて来る。小鳥、いや、そのように可愛いらしいものではないがとにかく囀りつづける女子の集団を見て俺は苦い懐かしさを覚えた。
「彼女達が何を話しているのか分からないが、少なくとも彼女達の言葉は閉ざされていないね。あのやかましさを見よ」
桂香仙子はしばらく女子連を観察していたが興味を覚えないといった態で、ふらふらと漂っていった。若く特徴のない人間にはあまり興味が無いのだ。
「おいおい、待てよ」
慌てて桂香仙子を追いかける俺の耳に女子達の言葉が入ってきた。それはこんな内容だった。

「ねえ、あの人もなんか電波受信してるよ」
「あ、マジで。まだ若いのにね。競馬の実況してるおっさんも怖かったけど、まともに話してるっぽいのもキモイ」

幸せな言葉は誰かの耳に届き、コンスタティブな意味を読み取られ、パフォーマティブに影響を及ぼすものだ。例えば、今の言葉が俺の客観的状況を表し、俺を深く傷つけたように。この言葉は閉ざされていない。労務者風の親父の言葉もまた、閉ざされてはいなかった。閉ざされた言葉とはなんなのか。俺にはその扉をこじ開ける力があるのだろうか。

「昔かいだ匂いに似ているのだよコン」
歩けども歩けども尽きる事の無い道に呆れ果て、絶望という名の死に至る病を罹いかけた俺に桂香仙子が声をかけた。
「だれが?」
「誰でもない。この店から昔懐かしい匂いがする、という意味の事を言っているのだよ」
駅を出て街の探索をはじめてから既に二時間が経過している。その間、水も飲まずにあてども無く歩き回った俺の五体はかなり不満足な状態にあった。桂香仙子の右尾が指す先を見ると、『桃源郷』という名の古臭い喫茶店である。
桃源郷か……。遥か彼方にあるという話だったがそんな物こそ意外に近くにあって気付かないものだ。仙子はここで休みたいのか?」
「私が休みたいわけではないが、まぁそれでもいいだろう。金は出してやるから早く入るが良い」
桃源郷は、なかなかに凝った作りをしていた。窓が一つもなく、壁は全て一抱えほどもある木を横にならべて組んである。これまた木製の、大きなアーチ型の扉は夏の日差しで体力を奪われた俺の手におえないほど重く、半分ほど開いた所で店の中から白くて細い手がぬっと飛び出して俺を手伝ってくれた。
扉が完全に開くと、そこには落ち着いた雰囲気の女性が立っている。茶色のパンツに同系色のノースリーブニットとエプロンを着込み左手に銀のお盆を、右手に長い箒を携えた若い女性は俺達を見てこう言った。
「いらっしゃいませ」
「ちょいと邪魔するよ」
そう答えて俺は暖簾を掻き分け店内へと侵入する。店内は適度な気温に調整されていて、暑さに参りかけていた俺にとってはまさしく桃源郷であった。
「私はこの純喫茶の店主、片岡柴。店主って呼んでくれると嬉しいわ」
店主は箒で俺の行く手をさえぎりながらそういった。長い髪を後にひっつめ、鋭い目をもつ美しい女性だ。店内は狭く、四人掛けのテーブル席二つと、カウンター席しかない。店内にはさまざまな大きさの木彫りの熊が鮭をくわえたまま俺を威嚇していた。壁にかけられたメニューが目を引く。
「店主、あれはなんと読むのか?」
「コーヒー、よ」
「では店主。珈琲を二個いただこう」
店主は俺をカウンター席に案内すると、微かに微笑んで、
「わかったわ、珈琲を二つね」
と言ってカウンターの中に入っていった。

店主の珈琲捌きは見事なもので、匂い立つ豆の香と黒く不透明な液体は、人の渇きを癒す飲み物の本分を遥かに越えている様に思われた。店主がカウンターに二つのカップを置く。眼鏡をかけていないにもかかわらず、俺の視界が白く曇っていく。俺は手前に置かれたカップに手をかけながら店主を見上げた。
「不思議に思わないのか? 俺が珈琲を二つ頼んだ事について」
店主が小首をかしげながら答える。
「全く思わないわよ。そちらのお嬢さんも珈琲を飲むのでしょう?」
店主は桂香仙子を見てはっきりと表情を緩める。桂香仙子は耳を軽く動かしたくらいで大して驚いた風でも無かったが、俺は大変な驚きを覚えた。俺以外に桂香仙子を見た人間は初めてだ。
「居ない訳でもないのだよ。憑かれてもないのに我々を視る事のできる人間が」
四肢を広げ背伸びをしながら桂香仙子が言う。
「では私も堂々と珈琲をいただこうか」
「どうぞ」
店主に促されるままに俺は珈琲を飲み、桂香仙子がカップをなめる。
珈琲とはとても苦いものだった。

店主は俺達が珈琲に戸惑っているのを楽しげに見ている。俺はこの液体が一体なんなのかよく分からなくなった。特に美味しくもなく、見目で楽しむものとも思えない。そういえば、この店自体が少しおかしい。客が一人も居ない喫茶店に、妖弧を見ることの出来る店主。木造、熊。俺はカップを店主の方に押しやると勢いよく立ち上がり、距離をとった。この女は怪しい。しかし、店主は平然としたものだった。
「どうしたの? ゆっくりしていきなさい。あなた達の捜し物はきっと私が持っているもの」
今度は俺も驚かない。むしろ、向こうから切り出してくるのを待っていたといえる。不思議な感覚が広がり意識が冴え渡る。俺は鋭く迫った。
「あなたが言葉達を閉じ込めたのですね? ひどい事をなさる」
店主は軽くまなじりを上げた。俺の反応が意外だったようだ。
「いいえ、違うわよ。でも、そうね、確かに今は私が閉じ込めているのかもしれない。これを読んで御覧なさい」
そう言うと店主は地酒壷の間から数枚の大きな葉っぱを取り出した。気勢をそがれた俺は、その葉を一枚だけ受け取って、子細に眺めてみる。
「これは……。柏の葉ですね。なにかとても下手な字が書いてある」
「ええ、そうよ。柏の葉であり、同時に便箋でもある」
確かに、その葉は手紙であるようだった。すると、これが閉じ込められた言の葉達なのだろうか。手紙、閉じ込められた言葉、誤配される郵便物。それは黒山羊、白山羊の逸話を連想させたが、現物が残っている以上、そうではないだろう。それに山羊は柏の葉を食べない。
手渡された一枚の葉を読んだだけで、俺はその手紙の特異な生い立ちに気付いた。
「これは狸語ですね。恐らく、四国でかかれたものだ」
「あら、よく知っているわね。『た』の頻度から言って、かなり幼い狸が書いたものだと思うわ」
狸語とはその名のとおり、狸たちが使う一種の方言だ。千年を生き抜いた大狸ともなると、非常に難解な狸語を使う。数十字に一度「た」以外の文字が出れば良い方で、もともとの言葉遣いが古語であるのもあいまって素人には読解不可能だ。この便箋は通常の日本語としてもなんとか読めるレベルであり、まだ年端も行かぬ子狸が書いたものだと思われた。
狸と狐は古来からの仇敵である。一族の仇でもある狸の書いたものに興味があるだろうか。桂香仙子の方を見ると、様子がおかしい。耳を伏せ、二本の尻尾を巻き上げている。桂香仙子は普段本能的な動物のしぐさを出したがらない。この便箋に怯えているのだろうか。
「これ、知ってるのか?」
桂香仙子に尋ねたが、返事もせずに部屋の隅で白い体躯を丸めてしまった。
「桂香ちゃんはこの手紙知ってるから。とりあえず、読んでみて」
店主は俺にそう促すと、桂香仙子を抱き上げてカウンターの中に戻っていった。

たぶん、私は西た洋の人の生まれ変わりだと思います。それたも、割と高貴な家の。なぜなら、他の子達たと少し違うところが多いからです。お姉さたんとも結構違うので、血のせいではないと思たいます。
まあ、前世が何でたあっても現世には関係ないんですけど、こたないだその事を母に言ったら殴られました。「財布からお札抜いたでしょ!!」ったて。

「ちゃんと読めたかな?」
「ええ、大体の意味は把握できました。悲しいお話ですね」
だが、どこか気にかかる。俺は言葉を扱う者として捜さなければ、見つけなければならない。この手紙から欠如したものを。描写だろうか、心理だろうか、全体に通底するテーマだろうか。二枚しかない便箋を何度も読み直した。言葉が海馬に刻まれて、やがて諳んじられるようになった頃、三五回の熟読を経て、遂に気付いた。この文章に欠けている物。
「店主。この手紙、封筒に入っていたのでは無いか?」
店主は軽く口の端を歪めると、酒瓶の間から古びた封筒を取り出し、無言で俺に投げてよこした。店主の胸に抱かれている桂香仙子はだいぶ落ち着きを取り戻したようで、耳を立ててこちらを見つめている。
一瞥して、封筒の差出人を確認する。やはり、この手紙が目的のものだったようだ。俺が立ち上がると、桂香仙子も店主の腕から離れ、一瞬煙に包まれると若い女性の姿に変化した。白い体を黒を基調にしたドレスで着飾り、頭にはヘッドドレス、上下ともに白いレースで飾られている。この時代錯誤の衣装は、決して桂香仙子の長寿と、数奇な運命から来ているのではない。桂香仙子はそのときの気分に合わせて変化する。神宮橋にいそうなゴスロリ少女の格好は、神経質、精神病的な現在の気分を反映しているのだろう。俺はここで引き返すべきか悩んだが、どの道決着はつけねばならない。
「桂香仙子、これが君の捜していた『閉じ込められた言の葉達』だね。この部屋には、妖しく哀しい空気が充満しているはずだ」
「そうだな。まさしくその手紙が私の捜していたものだ。よく見つけた」
「君は最初からこの手紙の事を知っていたはずだが、何故その事をいわなかった?」
桂香仙子はうつむき加減のまま返事をしない。黙って様子を見ていた店主が口を挟む。
「待って。その手紙のどこが閉じ込められた言葉なの? 私には普通の手紙にしか見えないけれど」
店主は恐らくこの手紙の謎をずっと以前に解明しているだろう。この小さな喫茶店にいる三人の中でこの謎に最後に気付いたのは俺だ。本来ならここで俺が探偵役を演じる必要は無いのだが。
「わかりました。ではそもそもの始まりから説明しましょう。ただ、俺にはこの悲劇が生まれるに至った経緯は説明できません。今ここに示された手がかりから推測できる事だけをお話します」
「よろしくお願いするわよ。でも、ちょっとだけ待ってくれるかしら。まだ少し早いけれど店を閉めてしまうから」
そう言うと店主は店の表に出ていき、俺と桂香仙子は奥のテーブル席に座って店主が戻ってくるのを待つ事になった。店主は俺と桂香仙子が落ち着くように間を空けてくれたのだろう。
桂香仙子は机の上で手を組んでうつむいている。俺はどんな言葉をかければいいのか分からず、ただ黙っていた。彼女は何故、この手紙を俺に捜させたのだろうか。俺に分かるのは、彼女が言葉を閉じ込めた事に深く傷ついていることだけだ。

看板と暖簾を店の中にしまって、店主が戻ってきた。
「それでは名探偵さん、始めてもらいましょうか」
俺は頷いて姿勢を正した。桂香仙子も視線を上げる。店主は少しはなれたカウンターに足を組んで座った。
「まず、このテクストの内容から説明させていただきましょう。このテクストは暗号文になっていて、普通に頭から読み下したのでは意味を読み取る事が出来ません。ではどう読めばいいのか、これに気付くのはそう難しい事ではないでしょう、『た』を飛ばして読めばいいのです」
そういいながら俺は一枚目の葉を二人に示した。
「この手法で読むと、例えば、一枚目のはがきの冒頭部分はこうなります。『ぶん、私は西洋の人の生まれ変わりだと思います。』ただ、そのままだと本来必要な『た』も抜けてしまいますから、そこは想像で補う必要があります。この暗号は本質的にそのような曖昧さを内包しているわけです」
俺はここで一旦言葉を切り、カウンターから移してきた珈琲をすすった。どうやらこの液体には不思議な力があるようで、俺にはみる必要のないものまで見えてしまう。
「そんなに簡単に解けてしまう暗号に、言葉を縛り付ける力なんてあるのかしら?」
店主が言った。
「ええ、本来ならこの程度の暗号で言葉を縛り付ける事など出来ません。現にこうして俺はこのテクストを読み解く事が出来たわけですから。でもそれは偶然でもあります。この手紙は本来、こちらの封筒とセットになっていました」
俺は左手に封筒を持って二人に示した。
「さて、暗号文にはそれをとく鍵が必要です。狸の暗号は脆弱ですが、きちんとした鍵が用意されています。もし鍵が存在しなかったら、この悲劇は生まれなかったでしょう。簡単に扉をこじ開けて言葉達と邂逅出来るのですから。でも鍵は用意されていた」
「封筒に書かれた署名がその鍵なのね」
やはり店主は気付いていたのだろう。
「ええ、そのとおりです。狸暗号の鍵とは、『たぬきから来た手紙である』という事実から成ります。全ての言葉は話者と場から切り離された途端、その意味を変質され正しく読み取る事は次第に難しくなっていきます。狸暗号はそれ以上に強く、決して話者と切り離す事の出来ない暗号なのです。だから、店主は最初封筒の存在を明かさなかった。だって、封筒にはたぬきではない、いや、きつねである桂香仙子によって署名されていたのですから。たぬきではない者に書かれたあの手紙は、誤った鍵によって封をされ、今まで誰にも読むことが出来なかった。こじ開けようとすれば簡単に開けられたにもかかわらず、です」
単純な事だ。誰だって狐から来た手紙が狸暗号でかかれているとは思うまい。俺は説明を終えて、二人の顔を見た。店主は曖昧な表情を浮かべている。桂香仙子はやや落ち着きを取り戻したが、普段の威厳は全く感じられず、気弱になっているようだ。
「そこまで分かっているのなら、私があの手紙を書いた理由も分かっているのだろうね。私は幼い頃に狸に拾われて、狸として育てられたのだよ。あの頃はまだ、自分のことを狸だと思っていたよ」
そういって自嘲気味に笑う。
「まだ何も分かっていなかったんだね。自分のことも世界の事も。あの手紙のせいで、こんな事になるなんて。言葉達にはひどい事をしてしまった」
金髪のウィッグで顔を拭ったせいで、地の黒髪が肩口から顔を出す。俺は自分の所業に怒りにも似た苛立ちを感じた。これ以上因果の連鎖が続く事には耐えられない。
「違うんだ、桂香。例えば、君は日本語を話せないはずの冷蔵庫が突然話し出したとして、それを聞き取る事が出来ないだろうか? 最初は戸惑うかもしれない。これはブーンと言う、あの冷蔵庫特有の騒音がたまたま日本語に聞こえるだけだ、と。でも暫くたてば気付くはずだ。たとえ喋っているのが冷蔵庫であろうと、言葉は言葉だってことに。言語野が言葉を解釈するのに、理屈なんていらない事を。この言葉は最初から閉じ込められてなどいなかったんだよ」
そもそも言葉に感情などない。そんなものを傷つけたとして、なにか気に病む必要が少しでもあるだろうか、と俺は思ったが、それは口に出せなかった。うつむいたままの桂香仙子。やがて少し潤んだ瞳を見せて仙子は言った。
「ええ、私はなにも閉じ込めていなかったかもしれない。だけど、罪な人。あなたは私の心を閉じ込めたのだよ」

いつのまにか店主が居ない。カウンターの奥で酒瓶を物色しているようだ。今日の仕事もこれで終わり。たまには仙子と朝まで呑み明かすのも悪くないんじゃないかと思った。

終章
これが俺の長い旅の始まりに位置する事件だ。俺が柄にもなく過去を振り返るとき、この出来事がいつも起点となり、強く儚い力を今に至るまで投げかける。最後に一つ面白い話を紹介しよう。正月に皆で凧揚げに行ったときのことだ。橋の下で店主がこう言った。
「この女狐め!!」
そう、全くそのとおり。店主はいつも上手い事を言う。それでは本当にさようならだ。
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