こんにちは(5) / 純粋マッチョ

実感される根拠レスな価値と、他人のそれと、その他色々について、ある程度筋を通しつつ折り合うためにどうすればいいか考えるという、新青春日記シリーズです。つまり、無信心の先は、自然に無(共通の)価値、無歴史、無文化へと繋がっているのでは? そういう所が今まさに、愛国心が云々される理由かも知れません。
まずは、他人の振り見て我が振り治せということで、他の方がどうされているかを考えます。本当はきっちりマトリクスを描いて整理した上でお見せしたいのですがそういう才能に欠けているので一つ一つ思いつく振る舞いを列挙していき、それぞれの差を考えることで振る舞いを形作る要素を抽出していこうという目論見であります。僕が見て取れるのは振る舞いだけであり、それは本当に?(本当に?)そうなのか、というのはわからないし、また彼等もそれぞれの話題と状況から適切な振る舞いを動的に選択しているわけですが、それを見習って僕もそう振る舞うことは可能であるかも知れません。
まずは以前からその存在があれこれされている"純粋マッチョ"について。"純粋マッチョ"とは、自分の見て取った価値を相対化しない、相対化しないというのは意味がわからないので言い直すと、他人がそれについてどう思おうと関知しないし関係ない、可愛い物は可愛い、というシンプルでパワフルな態度です*1。その物の価値は自分の<快楽スイッチ>に直結していることによるのだ、というそれ以上詳細な説明を要しない、強力な理由でもってどんな場合でも身を守ってくれます。ただし、他人に影響を及ぼそうという場合にはこの態度はなんの説得力を持つことも出来ず、またその純粋ぶりの裏を推測するような行為にも有効な能動的対応が難しいという欠点があります。また、キモいものはキモいという恐ろしい言葉を生む残酷な態度でもあります。
"純粋マッチョ"は運用も簡単だし、比較的広範囲の物事に対応できますが、それでも不向きな分野はあります。僕は古井由吉を自分の純粋な楽しみのために読んだはとても言えません(それは単に事実でないからです)。
それでは、また。

*1:実際には他人の同意を得られなかった場合にどう態度が変化するかで、さらに二つに分類可能かも知れません。"純粋痩せマッチョ"と"不思議系純粋マッチョ"とでも名付ければいいでしょうか。しかしこれは運用時の問題であり、態度の分類には関わりがないので詳細は省きます。