東浩紀「計算の時代の幻視者」を読んで思った事(2)

なんでもかんでも好きな作家に結び付けてしまうのは、まぁ、僕の乏しい読書体験から来る悪癖だと思って見逃して欲しいのですが、グレッグ・イーガンがそのような問題をテクノロジーを小道具にして僕等の問題に結びつけて冷静に提示するのに対し、狂気じみた人間の妄想である?夢魔との対話を通して力説するしかなかった埴谷の不器用さ、というか、まぁ、周辺の文献を読むような気力もやる気も皆無の僕なんかにはその真意は全くつかめていないのでしょうが、そのような感慨に耽りました。だって、埴谷の他の文章は死霊を自分で解説するためのものだったとか言われても読む気しないのだですよ。
死霊」は形而上学的小説だと形容される事があるそうですが、グレッグ・イーガンも何かの機会に「SFを通して形而上学的なことが語れるようになった」とかって事を自ら言っていて、今検索したら引っかからなかったのでもしかしたら言ってないかもしれないですけど、ああ、僕は形而上学とか哲学と言う言葉は(よく分からないから)大嫌いですが、それはまぁ良いとして。とにかく、その様に非常に特異で妄想とも取られかねないような文章でしか表現できなかったものを、並行宇宙であるとか、コンピュータによるシミュレーションであるとか、明確なイメージでもって作家と読者が簡単に共有できるようになった、と言う其の事が非常に素晴らしい事だと僕は思います。僕が、「計算の時代の幻視者」を読んで非常に感銘を受けたのもそのような大変にポジティブな印象を受けたからで、でももう一回読むと僕が思っている事と東浩紀が書いたことは全然別なのかもしれないと思ったので書きませんでしたけど、取り敢えず。