埴谷雄高の《自分自身》と永井均の<私>は表記法も、その指す内容も似通っているように思うのですが、何か関係があるんでしょうか。それとも僕が知らないだけで、例えば、ニーチェ?とかに由来する由緒正しい表記法なんでしょうか。関係ないですけど、僕が永井均を知ったのは稲葉振一郎さんの「リベラリズムの存在証明」と言う本を読んでの事で、その本は読みかけのままでずっとほっぽってあるのでそのうち読まねばならないと思っているんだけど、どんどん本を読むのが苦手になっているので一生読めないような気がする。