いいわけ

アメリカ・ファンタジィ&SF誌特約 S-Fマガジン 2003年8月号の東浩紀によるグレッグ・イーガン論「計算の時代の幻視者-フーコー、ディック、イーガン-」を読んで非常に深い感銘を受けたので、それについて書きたいのだが、日記で東浩紀について書く、というのは僕にとってとても難易度の高いことで、それをするためには幾つか前置きをしておかねばならない。つまり僕は、東浩紀に対するスタンスをここに言明しておかなければならないと思う。いや、しておかなければならない。しておく。しておきます。
何故東浩紀に言及する事に僕はそんなに躊躇しなければならないのか。東浩紀について言及した途端僕の日記はどこかこことは違うルールによって運営されている仮想の戦場とでも言った所に強制的に参加させられてしまう。そこでは現代思想に興味はあるけど外人のやつを原書で読むのはだるいし、でも日常生活では話が噛み合う人も居ないから、ネット上で論戦して論破して論破して論破して撃破してやる、みたいに勢い込んだ人たちがその豊富な語彙と緻密に組み立てられた文章で持って徒党を組んで僕に襲いかかってきて、僕はあっという間に撃ち殺されてしまいます*1。それが恐ろしい。でも実際にはそんな事は起こらないし、そもそも東浩紀について言及している人は普通にオタクで、東浩紀の事を頭が良くて社会的にも認められているオタク仲間くらいに思っている事も多くて僕の場合はそれなのです。だから可哀想な子等だなぁくらいに思って見逃してやるのが正しい態度だと思う。態度だ。
僕が東浩紀を知ったのは「動物化するポストモダン」が出版された直後だから、2002年の頭頃だろうか。その頃2chのなにかのスレッド、ダイエットのスレッドか、Tu-Kaについてのスレッドかどっちかだと思うがどっちだか忘れたが、兎に角そのスレッドでオタクに定義について話をしていて、その中で突然「おたくってのは、「データベース」=「大きな非物語」の向こうに世界を見る奴だぜ」みたいな意味不明なことをいきなり書き出した奴が居て、やばい、なんか受信してるし、と思ったんだがその後何回か同じよう文章を他のスレッドでも見た。なんだろう、これは新しいコピペかなんかだろうか、と不思議には思っていたのだが、その疑問が解消されたのはそのすぐ後で、友人に紹介されたなんかだよくわからないオタク系大手テキストサイト?でアニメの評論に混じって「動物化するポストモダン」が紹介されていて、友人に紹介されたから兎に角読まなきゃいけないんだが、アニメの評論を読んでも全く分からんのでこの紹介を読んで速攻「動物化するポストモダン」を買いに行って、読んだ。
動物化するポストモダン」はあっという間に読める。そんで面白い。HTMLとかデータベースの話しはなんか変だなぁ、と思うけどそう言う細かい所をつついて喜ぶのは良くない。オタクまにあとかオタクオタクからすると許せない記述だとか、哲学者からみると噴飯物の記述がもしかするとあるのかもしれないけどそんな事はどうでも良くて、読んだらなんか人に言いたくなると思う。僕は友達に薦めまくりました。
他の本も何冊か読んだ。なんとか#ってのと、幻視なんとかはよんだけど余り覚えてない。東浩紀を語る上でもう一冊だけはずせないのは多分「存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて」です*2
これはすごい。僕は全編にわたって何が書いてあるのか欠片も理解できませんでした。全編に渡って、といっても第一章しか読んでないですけど。皮肉とかじゃないです。本気で分からなくて悲しかった。たぶん、人文系の本なら予備知識なしでもなんとなく分かるはずだ、というのが完全に間違った思い込みで、例えば僕が物理学の本を読んでも理解できないような意味で理解できなかったんだと思う。サントリー学芸賞ってのはどうやって選考するんだか知らないですけど、選考する人は大変だったろうなぁと。僕が最後に読んだ東浩紀の本はこれです。
その後暫らく東浩紀スレと批評空間スレを平行して読んでいたのだが、よくわからんがえらい狭い世界だなぁ、という感想を持つと共にそのうち見なくなりました。だから東浩紀の近況とかはよく知りません。東浩紀グレッグ・イーガンについて書いたりしなければ彼の文章を読むことは二度と無かっただろうと思う。

*1:例えば、ISBN:4061495755るような人たちに

*2:これのレビューも面白いなぁ