姉との記憶

人と世間話をするのがなにより苦手なので、昼飯は常に一人で食べており、これはずっと昔から同じ、小学校の給食を最後に、人と昼飯を一緒に食べた記憶がほとんど無い。高校時代にいたっては一人で昼飯を食べていた記憶すらないので、どうしていたのか、ご飯を食べないと人間は消滅してしまうはずでは? と不思議に感じ、よくよく思い出してみたところ、昼飯代としてもらった500円をゲームセンターで使うため、昼飯を食べていなかったのでした。道理で記憶がないはずです。
なぜ世間話が不得意なのか、というのを突き詰めるとおそらくあまり他人に興味がなく、素直に話すと「その話には興味がありません……」となるし、それなりの努力をすると他人からは適当に話をあわせているように見えてしまうからです(完全に正解ですが)。そしてまた、私は会話を外部から観察していたように話す癖があるので、相手もそれに応じて、会話における態度を評価するようになる、つまり、「K津x田はxxの話題あたりから急激に会話への興味を失った」だとか。最終的には会話の内容は会話自体を巡るようになるのですが、この際、態度の是正を強く促されるのは常に僕です。曰く、「話をちゃんと聞いていない」「すぐわかる嘘をつく」「意味もなく同じことをなんども言う」「うるさい」など。会話がこのフェーズに移行すると聴いてるだけで済むので楽です。そして、最近、良かれと思って机の上においた『誰とでも15分以上 会話がとぎれない!話し方 やっぱり大事!!46のルール』がこの傾向に拍車を掛ける結果となりました。つまり、会話は苦手なので放置安定です、という意思表示として置いたのですが、会話能力の向上に熱心な人、と逆向きに解釈され、うまく会話を回せなかった点を指摘することに対する敷居を下げました。また、きちんと46のルールを遵守出来ていたか、という新たな視点が会話自体に導入されたため、会話が一段落したあと、その会話の改善点を指摘しあう時間がとられるようになるなど地獄なので、職場の机に『誰とでも15分以上 会話がとぎれない!話し方 やっぱり大事!!46のルール』を置くのはあまりお勧めできません。
# しかし、実際のところ、この本と前作を一応は通読した私が覚えているルールは「相槌に、ほぉ、を使う」と、「感情に注目して共感? を示す」の二点に限られているため、「ほぉ、それは嬉しかったでしょうね」、「ほぉ、それは驚きましたね、しかし、また一体なぜそんな事態に?」のような会話の進め方が非常に多くなっています
ところで、今ふと思い出したのですが、姉が中学生になったばかりの頃、私は小学三年生でした(4歳差なので)。ある日、姉とその友達がなにか話していた折、姉が「ちょっと、それなんか冷たくない?」と友達に言いました。それを聞いた私は、会話の途中で、突然主題を離れて相手の態度を評価するようなコミュニケーションが存在するのか、と驚き、「会話の途中で、突然主題を離れて相手の態度を評価するようなコミュニケーションが存在するのか!?」と言いました。