今日目にしたサプライズパーティーについて

25Fの休憩室はほとんど休憩になんて使われておらず、机と椅子が無暗にたくさん置いてあるという特徴をフルに生かして軽いミーティング用のスペースとして扱われるのがほとんどなのですが、今日の夜七時過ぎには30人ほどの社員がクラッカーやビールを片手に大きな半円を作り、歌子さんが現れるはずの入り口を今か今かと見つめ続ける用途に利用されていました。歌子さんは先月上旬に婚姻されたので、皆でお祝いをしようという魂胆です。クラッカーを片手に待っているのは普段から歌子さんと近い業務に従事している女性の方たちで、それ以外の人は、ビールの注がれたコップを手にしていました。そのせいで、クラッカーを鳴らすのはなにか一種の特権であるように感じられました。一部には、パーティーを主賓に隠し通して開催することなんて出来はしない、と醒めた考えをもつ者もいましたが、大半の参加者は、実際このパーティーはうまく企画、運営されており、遂に大きなサプライズを巻き起こす時が来た、と感じていました。休憩室と業務区画は大きなガラスで区切られているだけなので、予定時刻ちょうど、同僚に連れられて近付いてくる歌子さんは休憩室内部からも十分観測可能であり、完璧なタイミングでクラッカーを鳴らすとともに「結婚おめでとうございます!」の唱和がなされました。歌子さんの側からも、普段とは異なる休憩室内部の様子は窺えたはずですが、休憩室には年に何度か手軽なパーティー会場としても利用されるという実績があり、全く警戒されていなかったようです。唱和を耳にした歌子さんはとても驚いていました。左手を口に当て、そのまま後退して部屋を出て行こうとしたので、同伴してきた同僚が強く右手をにぎって休憩室内に引き戻したくらいです。その様子がパーティー参列者の笑いを誘い、平日終業時刻を過ぎたばかり、これからまだまだ働くぞ、と決意を固めた業務継続中の社員の間にも、穏やかな空気、さぁ、パーティーが始まるぞ、と気分が浮き立つような感じが伝染していき、実際に一部では突発的なパーティーも連鎖して開始されました。一部始終を業務区画からガラス越しに眺めていた僕は、まさにサプライズパーティーだな、と思いました。
そういうわけで、参加することは叶いませんでしたが、今日生まれて初めてサプライズパーティーを目にした僕は力強く断言できるのですが、サプライズパーティーは実在します。しかし、一方で、理論的にサプライズパーティーは存在しえない、という説にも十分な説得力があるように感じられます。一部引用しますが、他の日記もご覧になることをお勧めします。

「普段周囲から激しい暴力を受けている私がトイレから帰ってくると部屋が真っ暗だった……。目を凝らしても何も見えない。すると暗闇からかすかに歌声が聞こえ始めた。ハッピバースデートゥ……。」つまり、これは、サプライズパーティーを想像した情景だとは言えない、これはサプライズパーティーの想像だとは言えない、のではないか、ということです。

普段周囲から激しい精神的肉体的暴力を受けているのなら、トイレから帰ってくると部屋が真っ暗なら、恐ろしくなるだけでしょう。部屋が明るくなり皆が「ハッピバースデートゥユー」と歌うのを目にしても、恐ろしい気持ちは去らないでしょう。このことは以前書きました。普段周囲から激しい暴力を受けているひとは、トイレから帰ってくると部屋が真っ暗でも、皆が笑顔で「ハッピバースデートゥユー」と歌うのを目にしても、みんなから感謝の言葉付きでプレゼントを受け取っても、部屋の机の上にささやかでありながらも本人の好物でありかつ食後から10年後まで短期長期の体調と健康を見据えていることを明確に意識させられる繊細で押し付けがましくない料理が用意されていたとしても、催しの間中皆がにこやかに話しかけてくれても、それでも恐怖は去らないでしょう。つまり、上の想像は、パーティーの本質、それがなくなればもはやパーティーとは言えなくなるパーティーの本質的要素が、完全に欠落しているのす。

僕の解釈で乱暴に要約すると

  1. パーティーがパーティーとして成り立つには参加者、主賓の間にパーティー開催に至る文脈が必要である
  2. 真のサプライズとは文脈から完全に切断されてしまう事態である
  3. よって、真にサプライズであるパーティーは存在せず、想像することもできない

つまり、上の例で言うと、歌子さんは一時的には驚きましたが、「自分がごく最近婚姻しており十分祝われる謂れがあること」、「祝っているのが同僚であること」などから即座にパーティーに順応しており、真のサプライズではないため、サプライズパーティーではない、ということになります。
これはパーティーに特有の事態です。つまり、真にサプライズであるお葬式、などは簡単に想像できる。たとえば、科学が極度に発達し、不老不死になったと思われていた人類に何億年かぶりに死者が発生した時のお葬式、とか、全然知らない人のお葬式、とかです。むしろお葬式はサプライズで行われるのが普通であり、特に自分が死者として参加する場合などはまさに死んだら驚いた、というような感じでしょう。
ただ、一つ、僕の要約で言うと、「2.真のサプライズとは文脈から完全に切断されてしまう事態である」が厳密に過ぎる気がします。人々は、パーティーについてもっと動的な、運動に近いイメージでとらえているのではないでしょうか。つまり、日々には様々な、祝われてもおかしくないこと、というのが存在します。そうした事態が発生するたびに、パーティー発生への圧力(文脈)が高まります。しかし、通常、パーティーを阻害する各種の固定的な要因の力が上回っているため、パーティー発生圧力が臨界点を越えて高まることは滅多にありません。
ときどき何らかの原因で、パーティー発生圧力が臨界を越えて高まり自然発生することがありますが、これは通常のパーティーです。サプライズパーティーとは、パーティー発生の圧力がそれほど高まっていないにもかかわらず、なんらかの理由でパーティー発生を阻害する力が損なわれたときに発生するパーティーのことではないのか、と思っています。