おれはおまえの株券じゃない

「おれはおまえの株券じゃない」はおれが思いついたフレーズではないので、最初おれはこのフレーズをバーで人から聞いた。正確にはこうだ。
「それがどうした、俺はおまえの株券じゃない。勝手にしろ」
しびれる! もちろん、おれはあんたにこう切り返してやった。また別の機会にだけど。
「あんたは俺の株券じゃない。後生だから、すっこんでてくれ!」
なんだか混乱するのは、おれの周りの人々がみんな自分のことをおれって呼ぶからだ。おれや、その他のありとあらゆる人間(とCD)が株券ではあり得ない以上、「(A)は(B)の株券じゃない」(AとBは人間かCD)は任意の二者に於いて成り立つ。誰が誰に対してでも、「おれはおまえの株券じゃない」と宣言する権利は認めらている。
でもちょっと待って! いったい、そんなことを宣言する意味なんて存在するんだろうか。何についてでもあらかじめ宣言しようとする姿勢は、あまりにも宣言的すぎるのでは? 「おれはおまえの株券じゃない」と宣言するのは、「おまえはおれの株券じゃ」と宣言されてしまってからでも十分間に合う。
まず先に、そう宣言されてしまったらどう思うだろうか? なんかきもいな、と思うだろう。おれの気持ちがもっと若ければ、きしょいんだよ! といった類の言葉が不意に口をついてしまうかも。おれが株券じゃないのは端から分かり切った事だし、あと、なんか、おじいさんみたいなしゃべり方だな、と思う。でも、これは口に出さない。
「おまえはおれの株券だ」の気持ち悪さは、まるで「おれ」が「おまえ」の所有物であるかのように響くところにわけだが、連体修飾の「の」は必ずしも所有を意味するわけではない。「おれはおまえの父親じゃない」で考えてみればわかるが、「おまえ」が「おれ」を所有しているかどうかについて宣言しているわけではない。これは、二人が実際には血縁関係にないことを告白しているのだから、「お前は河原で拾ってきた子だよ!」の一変奏、ハードボイルドバージョンとみなすべきであり、実際、「おまえ」は不義の子であるとの宣告なのかもしれないのだから、いつどこから勢いよく斧が飛び出してもおかしくない、そんなタフな状況が想像される。でも実際は、そうですらないのだというから人間の知恵というものには限りがない……。
だから、実際、ここでいう株券とは、なんらかの関係性を示す比喩なのでは? と、もっぱらの噂だが……。