日記の真剣さについて

実際問題、読者として接する分には意味の取りにくい日記というのはあまり存在しないので、日記のわかりやすさというのはそれほど気にする必要がないのではないか、という気もするけど、おそらくそれは逃げであり、日記をわかりやすく書こうとする努力の恥ずかしさ、が辛いのではないか。考えたことをただ書いた、というのなら文意が取り辛かったり、即座に矛盾していた日記でもそれは何かの失敗を意味しないけども、わかりやすく書こうという努力が失敗していることはすぐにわかる(毎日の食事がメモしてある日記の失敗は証明出来ない)。そういうわけなので前回の日記を逐文で説明し直してわかりやすく説明しようとする努力の姿勢を広く示したい。
まず、前提として前回の日記が混乱、あるいは矛盾しているように見えるのは、「ある行為が合理的である」といった場合の「合理的」を二つの意味で使っているのにそれぞれを明確に区別していなかった、からです。というか、正確に言うと、僕は「合理的」という言葉を「ある目的にとって適切である」という意味で使っているにもかかわらず、「ある目的」を明確に示していなかったので、それぞれの場合に「合理的」の意味にブレが生じていました。
一つには、それが金銭的な意味での利益という目的に沿っている、という意味で「合理的」と書いていたのでこれをA合理的、と呼びたい。保険というのはリスクとなるような事態が発生した場合に掛け金が返ってくるギャンブルなので、普通は徹底的にA合理的な選択肢を検討するものなのに、生命保険は絶対にリターンがないので面白いなぁ、というのが発端。
次に、ある行為から得られる心理的な利得(満足感、名誉感情など)を目的として捉えた場合に合理的であるというのを、B合理的である、とします。ここまでだとあまり違いが明確でないですが、これを利他的、利己的で説明し直すと面白い、まぁ面白くないかもしれませんが説明すると、完全に匿名の募金は金銭的な意味では完全に利他的であり、完全に利己的でないですが、心理的な利得を利益と考える利己的であり得る(募金することで満足感を得ているから)。
「利他的」であることが「善である」、「利己的」は「善ではない」、と仮定すると、完全に匿名の募金は金銭的には「善である」けど、心理的な利得を考慮すると利己的であり「善ではない」といえるか? つまり偽善か? というとこれは偽善ではないと思うのでそれを説明します。まず、「心理的な利得のある行為は利己的であり善ではない」が成り立つとすると、本物の善意は心理的な満足を得てはならない、ということになり、やっても嬉しくないことをただ善いことだから、という理由で実行するという人間が想像出来るだろうか、それはむしろ善い人間とは言えないのではないだろうか、ということになり、善のハードルがあがりすぎるので、心理的な利得があっても偽善ではないのではないか、と思います。まぁ別に善かどうかには特に興味がないのでどうでも良いですが……。
話が逸れました。逐文での解説を始めたいと思います。

軽く見積もっても「なぜ人を殺してはいけないか」、通称なぜころ問答と比較して十倍は時間をつぶせるので500ブクマくらい行くのではないかと予想していたけど、全然そんなことはなかった。「なぜころ問答」と並べたとき見栄えがするように略せるようエントリ名にいらぬ気まで遣ったのに……。今日はなぜオタシリーズとリンク出来るようなエントリ名にした。オタが生命保険に加入したという話は聞いたことないですが……。

僕はなぜころ問答があんまりもてはやされるのが口惜しかったのでこのような口ぶりになりました。なぜオタシリーズというのは「なぜオタは○○しますか?」というようなネタのことです。ここは別に混乱の兆しが見られないしどうでも良い感じです。

まず、僕は生命保険に入る人の心情が想像出来ないわけではないし、入ることもあり得るだろうと思っているので、共感性が欠如しているわけではありません! 複数の人に最も相談事をするのに向いていない人間として認定されてきたので、ある種の共感性の欠如はやはりみられるのかもしれませんが……。

ここも大丈夫だと思うので飛ばします。相談に向いていないと言って半ば非難されたことが複数回あるというのは本当です。

生死については、単純な金銭面での利得としては絶対に死後にしか発生しない、ので0としてしか計算出来ない、という点で僕にとっては重要です。名誉感情などの心理面での利得を計算に入れるのなら合理的だ、というのは分かりますが、たとえば一度も着ない服を大量に買うことでストレスが発散出来た、というのを合理的と形容するかというと、しないと思います。

ここは一つ混乱している点だと思います。前段はA合理的であるかどうかにとって生死が重要だ、と言う話をしています。後段の「一度も着ない服を大量に買うことでストレスが発散出来た」という例は考慮の余地があります。これはB合理的な行為である、と言えるだろうか「ストレスを発散する」という目的で服を買ったのならそれはB合理的だったと言えるが、「服を着る」という目的で服を買ったのだとすればそれは心理的な利得があったとしても合理的である、とは評価出来ないのではないか、なぜなら目的を達成していないから、ということだと思います。しかしこの理屈だと、生命保険に加入する人は自分が安心するために保険に加入するのだ、ということを自覚していないとB合理的である、とは言えない、ということになりそうです。まぁ別にそういうことになっても特段困らないですが……。

しかしよく読んだら、「名誉感情が利益だと感じること自体が非合理だと思うか?」との事でした。非合理かどうか、というのをある目的(利益)があってそこへ向かう手段として有効かどうか、ということだとして、目的が生物として遺伝子を残すことであれば、名誉感情が利益であると感じられるのは非合理でない、合理的だと思います。しかし僕の目的は遺伝子を残すことではない(というかそのレベルでは目的はない)と。

ここは質問の意図が正確に掴めなかったのでぼんやりした感じです。僕は進化論大好きなので、自分に備わっている性質は進化の途上で遺伝子を残すという目的にとって合理的だったので残っているのだろうなぁ、と考えています。もちろん進化は完全に最適化してくれるわけでは全然無いので要らない器官とかも残っているわけであり、そういう意味で非合理な組織(盲腸とか、目の構造がおかしいのでエイリアンが殺されるとか)や、非合理な感情、というのももちろん想像出来るんだけど、それは遺伝子にとっての合理的、非合理であり、僕にとって、ではなく、僕にとってはそれについて進化論で合理的な説明が出来ようと出来まいと、その性質は非合理な所与の条件、としかいいようがなく、極端な話、原因は全く不明だけど、携帯電話に堅い物が刺さっていると異常に楽しくなる、というような性質がなぜか備わっていた、というのと変わらないくらい非合理ではないかぁ、と思います。長いセンテンスを書いてしまいましたが、こういうのが良くないのかもしれませんが自分にとって読みやすい感じでしか書けないのでこうなります。
最近知った進化論の面白い話は、自分の子供は半分遺伝子が共通で、全弟や全姉も大体半分の遺伝子が共通で、甥っ子は更にその半分、1/4位が共通なので、甥はかわいい、と言う話でなるほどそういう理由がないとあの可愛さは異常だなぁ、と言うことです。これは遺伝子にとっては合理的な理由があってかわいいのですが、僕にとっては非合理にかわいい感じです。弟や姉がそれほどかわいくないのは年齢が近いのでそれほど援助が必要ないからなのか家庭環境の所為なのかよく分かりません。進化論は大泉逸郎さんに対してこれほど合理的な答えを用意しているので、ID論もそれくらいのことはして貰わないと困る感じです。

もし名誉感情を利益と感じるか、感じないかを選択出来る(名誉感情を利得と感じる、感じないの選択を目的のための手段と出来る)のであれば、目的がなんであれ、感じない方を選ぶとおもいます。それを選んでる僕はどう今の僕と同じなんだ、という話ではありますが……。

これは合理的、を無理矢理自分の解釈に当てはめて質問を解釈しようとするとこうなる、というだけであまり意味がある文章ではないですが、イーガンの短編の「しあわせの理由」がそういう感じの話でとても面白いので読むべきではないか、と思います。そういう感じとかいったら失礼ですが……。長くなったのでここで終わります。