自分の操作性について

しあわせという単語を使っているとどうしてもスピリチュアルな印象がぬぐえないし、あまり正確ではないからしあわせを二つに分けようと思う。一緒くたにして考えたのが良くなかった。長期的なしあわせと短期的なしあわせ。長期的なしあわせは目的/目標であり達成される。短期的なしあわせは快・不快の快であり感じられる、という風に。
一般的な人生のモデルでは、まず先に、目的があり、それを達成するために短期的な快・不快についてある程度我慢する、我慢できなければ目的/目標を変更する。
快・不快についてはもちろん、目的・目標も自分の思い通りにはならない。目標を変更することは出来るが、それは目標の価値を自由に増減できるからではなくて、快・不快のコストが高すぎて断念せざるを得ないからです。すべての男は世界最強にあこがれるがさまざまな段階でそれを断念する(うろ覚え / グラップラー刃牙より)が、世界最強にあこがれる気持ちは変わらない、的な。
あまり宗教について知らないのに宗教について語ってしまい悪いですが、宗教は目的・目標を上書きすることによって短期的な快・不快に影響を与えようとするし、ライフハックは短期的な快・不快を直接ハックしようとする試み。で、もともと信仰に触れる環境ではないところで育った人が信仰でもって、目的・目標をハックするというのはあまりにも大技なのでいろいろ無理が生じる。無理は生じるがリターンは大きそうだ、リターンは大きそうだが気に入らないのは、それが選択可能ではない点で、私は何でも自分で選択し(た気分になり)たいし、少なくとも自分の内部であると感じられるようなことについては自分でコントロールしたいし、永遠に死にたくないので、帰依するのは難しそう。
不死はまぁ他に研究されている方が一杯いらっしゃるのでおいておくとして、目標・目的の価値、ある行為に対する快・不快が自由にコントロールできるようになったらどれくらいすばらしいかを考える。

快・不快がコントロールできるようになる

行為に対する快・不快がコントロールできるようになると、自分の長期的な目標と快・不快を完全に一致させられる。長期的な目標に沿う行為がそのまま快いことになるので、これだけでもかなり素晴らしい。素晴らしいが特に考えて面白いようなことはない、か。

目標が自由に設定できるようになる

何回考えても分からないのはこっちの方で、目標を設定しようにも基準となる物がないのだから、そんなことは出来ない、そういう能力を手に入れた存在を描くことは出来ない、ということかな。完全な自由、が完全な知識を前提にしそうなので、知識に対する意欲だけは基本的な方向性として設定し得るかも知れない(だから、イーガンの小説に出てくる人たちが正確な知識を求めるのは当然かも知れない、とも思うが別にそんなことはない)。不完全な情報のみをもとにして、ということになると情報の取捨選択とか、推測とかが入ってくるからそうすると色々考えられるかも知れない。これはちょっと本当にあれだと思う、もっと考えていた気がするが、実際書いてみると大して量もない。