右の頬を罵倒されたら、左の頬を差し出す(R)

こうした場合に、それぞれの議論に参加している人が目指すのは如何に自分の持つ価値の天秤と、議論の結果を近づけるか、自分の意見を支持してくれる人を増やすか、という勝ち負けの問題だと思います。

昨日の日記のセルフ引用ですが、これは"議論の結果"を動かして"自分の天秤"に近付けようとする、という意味で、逆の読み方、"自分の天秤"を動かして"議論の結果"に近付ける、あるいは議論の過程から影響を受けようとする、という捉え方が出来るとは考えもしなかった。自分の天秤が動くことを期待する、という心理が想像できないというか。"その時私が正しいと思っていること"は"その時私が正しいと思っていること"でしかなく、それが変化する、ということは今の私から見て将来の私は正しくない方向へ変化する、ということなのだから、今の私の正しさを信じている私はそんなことを望めるはずがないのではないか。その時私が正しい事をしようと思ったらその時正しいと思うことをするのであって、自分の考える正しさがより正しい方向へ変化するように行動することではないと思う、というかそんなメタ願いは願えない。経験的に、その時正しいと思っていることが後で正しいと感じられなくなることがあるのは知っているけれども、それを期待する、自分の今を特別なもので無いように感じることが出来るのだろうか、出来ない、と思う。ここまで書いた分を見直すと、私は常に正しさについて考えているように見えるが正しさについて考えることはほとんど無く、正しさ以外でもなにかを評価する基準については全てそういえるのではないか。評価の基準はその時その時の"絶対"で、かつ時間の経過によって変化することがありえるもので、"議論"はその時その時に問題と関わり合っている人の間で妥協点を探す作業で、だから本当に妥当な妥協点を探すためには各人は全力を尽くさねばならない。どこかに理想の議論の進め方があってそれに従えばどの集団にとっても同じ答えが出るというものではない、と詩的には思うけれども世の中にはそうでない議論も沢山ある、人や集団に従属しない結果が出る種類の議論もある、と言うことで、議論という言葉を使うのは止めます。"議論"を止めて(T)からやり直す。
このとき考えていたのは、多くの人に向かって何かを言うことが出来る状況において、"特定の相手に応答を求めるように発言すること"、と、"相手を特定せずに独白すること"、にはどんな違いがあるのか、と言うことです。少し長いので短縮形を考えた。"特定の相手に応答を求めるように発言すること"をtell、"相手を特定せずに独白すること"をshoutと呼ぼう、独白とshoutではだいぶ印象が違うけれど、これは標準的なネットワークゲームのコマンド名から取りました。私はtellには明らかなデメリットがあるので、全部shoutすればいいのではないか、からはじめている。で、デメリットとしては、まず第一に応答を要求される方としては負荷が増えて迷惑なので、tellする側はそれを上回るメリットを自分(と、周囲のことを考えに入れるならば周囲)に納得させなければいけない、と言うことです。