右の頬を罵倒された(そばかすがある、などの理由で)ら、左の頬を差し出す(Z)

「あいつは他人を罵倒しているんだから、自分が罵倒されても当然だ」という論をみました。心情としては激しく同意、激し…く……同意……、ですが、それを口に出してしまったら絶対に精神的なダメージ量で競り負ける。本当に罵倒された仕返しとして罵倒をするなら、そんな些細な理由は心にそっとしまって、もっと大きな物語に沿ってもっと存在に根幹から関わるような根拠をもって罵倒している、理想を言えば、それは罵倒ですらなく冷静な指摘であり助言であり、もう少し落として冷笑であり嘲罵であり、を装わないと、折角この日のためにシュッシュッと磨いてシュッシュッと振り続けてきた言葉のナイフ(比喩)が無駄になってしまう。
と言う観点から、最も大きなダメージを言葉だけで他人に与えようと思ったらどうすればいいのか、を考えたいと思います。私が実際にそうしたいわけではありません。単純なところから始めます。「死ねばいいのに」からです。これは、書くだけではてなキーワードから沢山人が来るという理由で選出しました。「死ねばいいのに」は純粋な悪意か嫌悪感の表明として受け取られるはずです。脅迫でも呪詛の言葉でもありません。何故なら、死ねばいいのにと思ったり書いたりしただけでは人は死なないからです。

2005年11月26日 呪術師 『死ねばいいのに』

たとえば、呪術師のような特殊能力者が『死ねばいいのに』と書いていたら私としても警戒を怠るわけにはいかないですが、たいていの場合そうではないので、あぁ、私はこの人に嫌われているのだな、と思うだけです。生きていれば誰かしらに嫌われることもあるだろうと思えるので、ここで悲しいのは誰かが私のことを、哀しませようと積極的に思うくらい嫌いだ、という事実ではないか、ということは、つまり、私が冒頭に書いた理想の罵倒(無関心な見下し)とは異なるベクトルを持った罵倒だと思います。でもまぁ、ここでは単純な嫌悪感の表明がもつ罵倒としての力を考えたいと思います。単純な嫌悪感の表明という意味では、「死ねばいいのに」は「生理的に無理」と同種の言葉であると思われます。「生理的」は「物理的」と並んで「絶対」を表す用語です。二文字目の"理"に何か秘密があると思われる。
「死ねばいいのに」が単純にそうした悪意か嫌悪感の表明であるとして、それに力を与えるものは何かと言えば、それが結びつくID = 人格です。一人の、人格として捉えられる人(言葉が重なった)が、他人を嫌いであると簡単に言うような人だと捉えられる可能性を引き受けてまで嫌いであると言いたくなるくらい嫌いである、大嫌いである、と言う事実が凄いのであって、匿名の死ねばいいのにとは重みが違う。格闘技で例えると、体重がのったパンチ ≒ 人格と結びついた死ねばいいのに、です。匿名の死ねばいいのになんて、体重がのってない、手先だけのパンチです。