町田康『告白』(ISBN:4120036219)

主人公熊太郎の緻密な心理描写や、実話を元にしているとは思えないほど意外な展開に引き込まれてページをめくる手がもどかしいほど。本を置くタイミングを見つけられず一気に最後まで読んでしまいました!
ということで、とても面白かったのですが、最後は十人斬り(男子高校生の夢会話に出てくるそれではなく、本物の十人斬りです。これは帯にも書いてあるので知ってても大丈夫です)をしてしまう熊太郎の世間に対する考え方や態度の変化がとても好ましい、良いなぁ、わかるわぁ、ある意味あるあるネタやね、これは、と思い、それと比較してこれも最近読んだ「ハッカーと画家」(ISBN:4274065979)の頭にくる感じ、あー、ほんと嫌やわぁ、なんやねんこいつわ、くわぁ、という感じが対照的でよい、と思ったのでそれについて書きます。
というのも、熊太郎もポール・グラハムも子供の頃はとても似ていたのではないか、と思うからです。それが長じて熊太郎は河内音頭のスタンダードナンバーで今も語りつがれる犯罪者、ポール・グラハムは普通の奴らの遙か上を行くスーパーハッカーになり本まで出す、というこの違いはなんなのか。

例えばトラック競技をしていたとすると、村の人はなにも考えずに走っているのだけれども、自らの思弁を現す言葉を持たぬ熊太郎は、暗黒舞踏を踊りながら走っているようなもので、その内面の事情を知らぬ人から見ればアホにしかみえなかったのである。
そして大抵の場合、他人の内面など分かるはずがないから熊太郎はアホの無能だと思われていたのである。或いは、もっと分かりやすく言うと、熊太郎は言葉のまったく分からない国に突然迷い込んだ人のようなものであった。

『告白』P107。『ハッカーと画家』は実のところ最後まで読めなかったのでもっと適当な部分があるかも知れませんが、例えば、

ある意味、私たちは中学校に呼び戻された大人のようなものだった。中学生がどういう服装をして、どういう音楽を聞いて、どういうスラングを使ったらさまになるかなんて全然分からない。きっと、全く別種の人間のように見えたはずだ。ただ、もしそうだったとしても、同級生にどう思われるかなんて気にしなくてもいいくらいものを知っていたことだろう。当時の私たちにはその自信がなかった。

ハッカーと画家』P14。こうして並べてみると全然違うような……、というのはまぁどちらも本人の視点から述べた箇所ではないのでそう見えるだけで、こんな気分はまぁみんなある、あったんじゃないか、特にインターネット大好きな人には多そうです。
ここからどうして違ってしまったのかを考えようと言うことですが、まず面白いと思うのが、ポール・グラハムは自分の中学生時代を空虚な生活に耐えられない聡明な小さい大人と捉えているのに対して、熊太郎は成人しても大人になりきれない、しきたりになじめないいつまでも子供である人間として描かれていてまるきり正反対であること、で、これは子供の時周囲になじめなかった人は、そのまま周囲になじめないのか、それともそうでなく早熟なオタクは大人になって周囲から認められるのか、二種類のオタク、悪いオタクと良いオタクの話では無かろうか、と思いましたが僕はそんな話はしたくないので、オタクについては忘れます。
書きかけで間違えて登録してしまいました……。明日続きを書きます……。