『告白』(1.5)

熊太郎、ポール、二人のどこが違うかっつっても、なにもかもが違うのであって、国も時代も話の合う仲間が居る居ないも全部違う、けど、おそらく、どの時代どの国にもポールみたく自分が浮いていたことをレッツビギンポジティヴやでぇ、と捉えてがんがんいける人もいれば、逆に熊太郎みたく駄目をこじらせる人もいるのだと思う。そんで、それはその人が周りから見て成功したかどうかで決まるのではなく、なんかこう、生まれ持った気性? で決まるんちゃうん? だって、いつまでたっても、俺はやれば出来る子だ、と公言する人だって居るわけです。それは「俺はやれば出来るんやで?」という強気な態度として現れるだけでなく、自分の現状の駄目さ(理想の高さ)を示すという形も取るのであり、それをストレートに表に出す、出している人を見るのが苦手、というか嫌い、です。傲慢な人と卑屈な人の嫌さは本質的には同じものです。彼は、自分の価値の絶対さに自信を持っていて、傲慢な人はその価値を自分で手に入れた(つもりだ)けど、卑屈な人はまだ手に入れていない(気がしている)、だけの違いです。
それを何で嫌うのか、はちょっとわからないが、説明してみます。つまり、そういう、「素晴らしいものがあるんやで」「頑張らなあかんて」という態度は伝染する、伝染すると素直に頑張るか、あるいは頑張らずに嫌な気分を味あわねばならん。頑張るのも嫌な気分になるのも好きではないので、ポジティヴは好かん、ということです。しかし、問題なのは世の中の素晴らしいものや、有り余る富などは大抵、頑張り・ポジティヴ・自信のもとに生み出されてきたと言うことであり、それらについては否定しがたい、するとやはり頑張りも大事では? となるわけですが、ここはちゃんと切り分けて、頑張りは大事だが、俺は頑張らない(大事なものに結びつかないから) 、とするのが安楽ではないか。だから、ポールは頑張りやさんが読むと面白いと思う。
昨日の日記で熊太郎さんに共感する、と書いていますので、僕は自分のことを思弁的な子供だと思っていたようです、というか、いまだに思っていて、たとえば、自分が本当に考えていたり興味があるようなことについて、実際に知り合いと腹を割って話し合ったことは一度もない、です。その替わり僕には日記があるので、日記とは腹を割って色々と話し合いをしています。僕が話したいなぁと思っていることはだからここに書いているようなことなので、まぁしょうもないというか、日記があって本当に良かったなぁとは思います。
ちょっとまだポールさんの本はあまり読んでいないので関係ないことを書いてしまいましたが、本当に興味はある、主に「自分は何故ポールさんの言葉にいちいち反感を覚えるのか」という所に興味があるのでもう少し読んでみようと思います。あと、話題の『電波男』も買ったので、ポールさんが恋愛について書いている所(あるかどうか知りませんが)についても注意して見ていきたいです。
(またプレビューから誤って登録してしまった……。最後の一文まるでポールさんが『電波男』を書いたかのように読めますが、そうではなくて、『電波男』はオタクと恋愛について書かれた本らしいので、ポールさんのオタク論も含んでいる『ハッカーと画家』の恋愛部分との違いに注目したい、という意味です。)