なにもしない人ほど批評家になる(2)

「なにもしない人ほど批評家になる」を含む日記[]を毎日欠かさずチェックしているのですが、想像していたよりもずっとひどい自分の浮きぶりに驚愕です。
あれからまた少し考えたのですが、僕の血液型占いに対する病的な嫌悪などもあわせて鑑みるに、どうもその辺りの、なんだかわかったような事を言われた(気がした)場合の僕の反応が過敏だと言うことなのでしょう……。自分で勝手に読んだ上に文句ばかり言って申し訳ない……。
まだ神聖喜劇を読んでいます。全然進みません。カッコつけようとしておかしな言い回しになっているのは主に神聖喜劇の真似がしたいからです。

そういう私において、「(真正の)芸術家」は、「習俗的であること」が(先天的・宿業的に)出来ないのであって、しかもまた「習俗的であることの悦楽にたいする内密にして激烈な憧憬」と「習俗的であること(の悦楽)にたいする(一抹の)軽蔑」との対照的両者を(先天的・宿業的に)ひとしく抱懐せざるを得ないのであった。

強調部分は引用元では傍点です。ほんとシビレル……。つまり、僕は(想像上の)テニサや合コンに対して、内密にして激烈な憧憬と、習俗的なキャンパスライフへの軽蔑を同時に抱いていた、しかも、それは自ら実践する事を忌避したのではなく、(先天的・宿業的に)出来なかったのです。それをいまだに愚痴々々言っているのは勿論大学はその差が極端に現れる人生の一時期に過ぎず、未だにその問題は続いているからです……。
しかしこの引用文は(真正の)芸術家について、東堂太郎さんが考えていた事なので、ほんとすいません、なんでもないので忘れてください……。