釣りが大好き

 そこには堀の主が棲むというもっぱらの噂であった。長く生きた魚は猫に同じく良く人語を解し、早々針にかかることも無い。尤も、針にかかったとしてもそこらのやわな竿では主を吊り上げるに到底役者不足であり、嘗て主が水面より上にその姿を曝した事は一度も無かった。堀の濁った水では、およその姿を確認する事も出来ぬので、主がどの目に属するものなのかも皆目見当がつかぬ。ただ、堀の常連が何回か巨大な魚影を見かけており、主は確かに存在する、というのが衆目の一致する所であった。

 果たして、ただの釣堀にそのような大物が棲息するという事はありうるのだろうか。彼奴は何を喰らって生きているというのだろう。私はゆらゆらと秋口の日光をたたえる水面を見つめながらそんな事を考えていた。水面には周囲の美しい紅葉が映えている。平日の昼間にのんびり竿を構えるような余裕を持った人間はこの辺りにはいないらしく、その釣堀には私一人しか客がいなかった。

 最近は釣堀も不況の影響で客が減ってしまったそうだ。近来の若者が釣りを趣味とする場合、大抵はルアーという疑似餌を使ったものである。このルアーというものには羽根のようなものと、堅い魚の模型のようなものがあるそうだが、どちらも大して変わるまい。釣りはスポーツだなどといって、釣った魚も食わずに放してしまうそうだ。あんなものは本物の釣りではない。この釣堀もオーナーの趣味で続けているようなものではあるが、経営は苦しいらしく、マイナスイオン海洋深層水の導入を考えているとの事であった。
「三ちゃん、マイナスイオンてーのは一体なんだい? わしはイオンは全てマイナスだと思っていたんだが違うのかい?」
 そうやって、オーナーに相談されたのは半年ほど前の事だ。私は懇切丁寧にマイナスイオンについて説明した。それでも不安げなオーナーを囲んだ私達常連はオーナーを励ますために口々にこんな事をいった。
「心配すんなよ社長。たとい全ての事象が崩壊し僕達が頼る事が出来るものが何もなくなってしまったとしても、俺たちは社長の釣堀をガチンコ漁法で空っぽにしてやるんだから」
「そりゃないよ、三ちゃん。電気で魚をしびれさせるのも勘弁しておくれ」
 本当に困ったようにそう言うオーナーを見て皆で笑ったものだ。
 海洋深層水を使うことになったら、この釣堀は海水魚ばかりになってしまうのだろうか。小学校の水泳場ほどの広さしかない釣堀ではあるが、それでも水の輸送は大仕事だろう。その時は私も古い放水車を引っ張り出してきてオーナーを手伝うつもりだ。

 釣糸を垂れてから一時間程が経ったが一向に当たりはこない。釣堀というのは何もしなくても魚が釣れる場所である。魚を養殖するのと同時に、釣り人を養殖している場所である。そんな釣堀においてメダカはおろかシーモンキー(海猿?)の一匹すら釣れないとは一体どういうことなのか。長い都会暮らしで私の釣り師としての勘もすっかり狂ってしまったらしい。

 思えば、私にとって釣りとは常に闘いであった。今も手にしている竹竿は釣りの師匠でもある祖父てづからによるものだ。その祖父が言っていた。釣りとは魚と、自分と、自然、三者混淆の闘いであると。突然牙を向く山の天気、岩陰から突如現れる群れを成した怪魚達、あの緊張と無縁の日々を送っている私が釣りの神に見放されたとしてなんの文句が言えようか。神はミヅカラヲタスクル者ノミに微笑む。私は自嘲気味に呟いた。

 埒も無い考えを振り払い、浮きに視線を戻す。黄色くて丸い浮きは夏の海岸に置き去られたビーチボールのようにただただそこに浮いていた。浮きの先、釣針に串刺された長虫もそろそろ退屈の余りバタリと死んでしまう頃合ではなかろうか。浮きがそろりと動いた。当たりが来たのかと思ったがそうではない。風も無い穏やかな日であるにもかかわらず、水面に波紋が満ちている。鶯でも水に落ちたかと思い波紋の中心を目で追って、驚愕した。

 濁った水の向こうに、全長二間*1近く、異様に巨大な魚影が実存している。波紋は彼奴のえら、その一振りから生じたものであった。

 竹竿を握る手に汗がにじむ。彼奴がこの堀の主に違いない。細かい所までは確認できぬが、全長二間*2に対し、全幅は一尺*3と薄く、全高は一間*4程ある。有体に言えば、それは一つの超自然的なまでに拡張された出目金のような形をした魚、であった。ただし、彼奴の目は決して飛び出してはおらず、むしろあまりの暗さ故にそこで空間が閉じているかのように見えた。また、墨色と鉄色で構成された鱗は一枚で扇子ほどの大きさがある。

 主の存在と、その威容を確認した刹那、私を構成する筋肉が、骨格が、神経が、既にその活動を終え静かに余生を送るのみである毛髪爪先にいたるまで、細胞全てが臨戦状態となる。五感は研ぎ澄まされ、第六感の覚醒を密かに感じながら思考は平時を遥かにしのぐ回転を維持し、なお落ち着きは失わない。

 主は私の釣針に磔られた瀕死の長虫などには興味を示すまい。かといって、周りには主の食欲をそそるような小動物は存在しなかった。行きがけに裏の森で栗鼠かムササビでも捕まえてくるのだったと後悔したが、ここにいないものを嘆いても仕方が無い。主が私の釣針に興味を示さないならば、こちらから出向くまでだ。

 竹竿をあげて一度釣針を手元に戻し、主の目先に投げつける。主の鼻先に沈殿した針を確認した後、私は竹竿のたわみを利用し、釣糸を鋭く引き上げた。釣針は頼りないながらも主の上唇にその足掛かりを得たようであった。

 主は上顎に甘噛み付いた小さな釣針のことなど気付きもしないといった態で泰然としている。私はその間に主から一等近い岸へ向かってそろりそろり移動した。どうせ網には入らないので、持っていくのは竹竿一本だ。一つ勢い良く踏み込めば彼奴に手が届くところまで距離を縮めたとき、近付いてくる他者に気付いたのか、彼奴が動き始めた。ゆるやかな動きながらも体躯の大きさに比例してその移動速度は凄まじく、見る間に遠ざかっていく。私は歩みを止めて、釣糸が伸びきるタイミングを計った。完璧な間でもって竹竿を引くと釣針は見事に主の上顎に深くめり込んだ。これで、主がどれだけ暴れても、針が取れることは無いだろう。そして、主は痛みとともに、己を束縛せんとする不遜な存在に気付いたようであった。

 激烈な勢いを以って主が運動を開始する。最初の一撃で私は危うく竹竿を手放すところであった。釣糸を通して伝わってくる主の憤怒で眩暈すら覚える。自分の技量と握力に自信が持てなくなった私は、余った釣糸で左手と竹竿を堅く結びつけた。これなら左腕がちぎれる事があろうとも、心ならずに竹竿を手放す心配は無い。

 それからは持久戦であった。主の体力が尽きるのが先か、私の命が消え果てるのが先か。私は釣堀の中を所狭しと走り回り、時に危うく左腕を千切りそうになりながらも、主の体力を奪う事に専念した。もとより数時間で決着がつくなどとは思っていない。何日でも耐え抜く覚悟であった。

 ところが、決着は余りにも早くついてしまったのである。私が落ち葉に足を滑らせて、堀に引き摺りこまれたのだ。いまや、私と母なる大地をつなぐものは堀の柵を掴む右腕一本であった。左腕にはしっかりと結び付けられた竹竿があり、その先には主がいる。絶体絶命であった。左手を離すことは不可能であり、右手を離せば私は堀の中を引き摺りまわされた挙句に腹にメタンを、胸に無念を抱えてこの世に別れを告げる事になる。釣りに捧げたこの命、怪魚との闘いに殉じて溺死するのは本望であったが、まだ諦めるわけには行かない。

 私は神経を焼き切るような痛みにたえ、この事態を脱する窮余の一策を案じたが、どうにも思い当たらない。いよいよ肩の関節も肘の関節も外れ真に死を身近に感じつつあった。いまや私の脳髄は視神経と痛覚を区別する事もままなら無いらしく、そこは痛みと秋の日差しが同等に存在する未知の美に満ちた異界であった。実は、”嗚呼、虎よ!虎よ!のラスト(詩じゃない方)のラストはこんな世界を描いたものであったか”と天啓を得たのはこの時である。ところが、釣りの神は未だ私を見放してはいなかったらしい。左手に結んだ竿が折れたのである。それは或は神の助けではなく、竹竿を作った祖父の思いが私を助けたのかもしれない。

 私は正直、ほっとした。これで魚に曳き殺されるという探検隊でも有り得ない落日を迎えずに済む、と。だが一方、釣り師としての意地と見栄が私を突き動かす。結局、私は一瞬の逡巡も無く釣堀へと飛び込んでいた。

 主は竿が折れた瞬間から猛然とここを離れつつあるだろう。私と主をつなぐ一本のか細い糸。釣糸を求めて私は必死に手を振り回した。今まで地上に立って魚と格闘してきた私にとって、水中は未知の世界であった。水面という越え難き壁を越え、私はまた一歩魚達に近付いた。それは、闘いの次元を一つ引き上げる革命的進歩といえるのかもしれない。

 だが、私にそんな悠長な事を考える時間は許されていなかった。私は水中で持続的に活動する術を習得していない。端的に言えば金槌であり、何億兆年か前に海を離れた祖先の業そのままに、水は私を一息に殺し得る。残された猶予は少ない。まだ釣糸を見つける事すら出来ていないのに既に息は切れかけ、水を蹴る力すら失われていくようだ。

 右手に釣り糸が触れた。必死で握り締める。超大型、猛烈な台風の突風に巨大な質量を与えたような激流の中、私は釣糸を手繰り手繰り、わずかずつ主に近付いていった。私の手に食い込んだ釣糸が皮膚を破り、血の匂いが釣堀に広がる。その匂いを嗅ぎ付けて集まった獰猛な獣魚達も主の怒りを恐れて遠巻きにしているようだ。そんな一つの巨大な生態系渦とでも呼ぶべき物の中を進む私の手に、遂に主の尾が触れた。私は釣糸を手放し、主の尾にしがみつく。

 主は尾に触れた私に気が付いたようだった。魚には痛覚神経が無いものだと思っていたが、そんな常識は通用しないようだ。主は尾にしがみついた異物を振り払うべく、手近な堀の壁へマッシヴ(massive)な体当たりを敢行した。

ドガァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァンンンンンンンンn

 閑静な住宅街に広がる異音。主の体当たりはコンクリート製の壁を粉々にぶっ散らかした。間に挟まれた私は三本の肋骨を主に体中を骨折し、幾許かの血液を失った。替りに手に入れたのは、新鮮な空気と、刹那の間隙。この一瞬主は身動きが取れない。這うようにしてコンクリートの欠片から体を引きずりだし、主の頭部へと近付く。何年もかけて鍛え上げた右の抜き手を主の左魚眼目掛けて突き抜く。鋭い刃と形容してもまだ相違う。ただ一条の鍛えぬかれた槍と化した俺の右手は、巨大な眼球とDHA*5層を突き抜け、主の中枢神経をずぶりと破壊した。

 私は主を殺し尽くしたことに、すっかり安心しきっていたのだろう。忘れていたのだ。死んだ魚が動くという事を。

 主は大海を自由気侭に荒らしまわっていた頃を思い出したかのように、ビチリと跳ねた。主の頭部に突き刺さったままの私の右腕は想定外の衝撃に耐えられず、ひじから外に折れ曲がる。グルァァァァと唸りながら私は右腕を引き抜くとそのまま後ろに倒れこんだ。左手は複雑脱臼し右手は完全骨折。全く酷い有様で、また無様でもある。

 しばらく、寝転がって未だ盛んに燃えつづける太陽と、死してなお跳ねつづける堀の主を見る。不思議と体は痛まない。私は再び立ち上がった。
「釣りが好きだー!!」
 叫んだ。本当は大好きだといいたかったが、先ほどまでの死闘が、私を躊躇わせた。


(了)

*1:約3.63636m

*2:約3.63636m

*3:約0.30303m

*4:約1.81818m

*5:ドコサヘキサエン酸。三日に一回食べると頭が良くなるらしい。