ヘイトについて

人を嫌うことに関しては自信がある。憎悪と呼ぶ程のものではなく、もっとカジュアルな感じの。正確に伝えようとすると、「人に対して感じる嫌さ」になりますが、適当な名詞が見あたらないので、外国のことばを借りて「ヘイト」と呼ぶことにします。ラインのオン・オフを問わず、ヘイトを抱く機会の多さ、範囲の広さ、ヘイトを抱く事への心理的障壁の低さ、などに関してはかなりのレベルにあるのではないかと自負しています。しかし、僕は、他人に関してはもちろん、自分のヘイトについても量や質を正確に推し量る能力を持っていないので、それらの見積もりはヘイトの結果として現れているのであろう行動や様子の観察を通して導き出したものです。つまり、ヘイトの結果として現れるヘイト行動(協調的でない態度、必要とは言えない誤りの指摘など)が僕に多くみられることは他人からの指摘も含めて間違いないので、保持するヘイトの総量も多いのではないか、と推測される。
しかし、ヘイトの多寡がそのままヘイト行動のそれに繋がっているとは言えないのでは?! たとえば、このような考え方も出来る。

ヘイト総量 * ヘイト露出抵抗 → ヘイト行動(見かけ上のヘイト総量)

過度に単純化されたモデルは脳内メーカーから受けた直接の影響だとお考えください(もちろん僕は脳内メーカーのURLをブラクラに対するのと同じくらい注意深く避け続けているので一度も見たことはありませんが!)。これに沿って考えるなら、ヘイト行動が多い原因は、ヘイトの露出に対する抵抗が少ないからだ、とも推測出来ます。また、ヘイト露出抵抗は場や相手との距離によっても大きく変動すると思われるので、自身の行動様式によっても他人の見かけ上ヘイト総量は大きく変化する。これでは、真のヘイト総量について考えるのが意味のある行為だとはおもえない。
すると、当然、「なぜ自分の持つヘイト総量を多く見積もろうとするのか?」というところに興味が移ります。これに関してはヘイトの総総量(全世界の総ヘイト量)と、ヘイトの負債という考え方を使って解決します。つまり、ヘイトの総総量は自分の持つヘイト量 * 何十億か(今生きている人間に限った場合)となるので、自分の持つヘイト量が多ければ多い程、自分に向けられているヘイトの相対的な量が劇的に減少するからでは? というわけです。