つんく♂さんについて(2)

つんく♂さんと歌詞について考えるのが非常に楽しい。今、考えていることを全て言語化できたらユリイカにでも寄稿できるのではないか、そして年末にはハロプロ歌詞大賞の開催まで?!? 何にせよおそらく私はつんく♂さんが公式に発表した歌詞のうち、おそらく数%程度しか目に耳にしていないのだから、しばらくは勉強勉強です。勉強が終わったら考えたいこと。

  1. 過去については数日から数ヶ月単位で記述するが、未来のことになると100年、あるいは1000年後にまで一気に飛ぶ、などの時間感覚について
    1. そういう意味で後藤さんの新曲、「今にきっと・・・In My LIFE」(中黒はアスキーアートとして使用しています)の歌詞はかなり意外だったのですが、今までの後藤さんの曲を聴いているのかと言われれば全く聞いていないので、別におかしくないのかも知れません
  2. 同様に、身近な関係からシームレスに地球、宇宙にまで詞が展開することについて
  3. 歌詞に登場する男性像、代表的な形容としては、SEXY BOY、SEXY GUY、ちゃらいけど熱い人、がかなり固定化されているのではないか、ということについて(これは人におしえていただいた話です)
  4. ロックな曲にはとりあえずWOW WOWという叫びを入れているのではないか

また、そもそもつんく♂さん作として発表されている歌詞は本当につんく♂さんが全て作詞しているのか、ということも疑い得ないわけではない、量だけで言ってもかなりのものなのですし、個人的には「秘密のウ・タ・ヒ・メ」の歌詞がつんく♂さんの手によるものだとは信じがたいのですが、もちろんつんく♂さんが作詞しているに決まっているのでそう考えることにします。

セカイ系について

上記、1、2について、これはいわゆるセカイ系ではないか? と考えていた時期がありまして、セカイ系というのはこういうものです。はてなダイアリーキーワードから恣意的に引用。

[きみとぼく←→社会←→世界]という3段階のうち、「社会」をすっ飛ばして「きみとぼく」と「世界」のあり方が直結してしまうような作品を指すという定義もあるようだ。

しかし、これはべつにつんく♂さんの歌詞に限った話ではなく、逆に社会を歌詞に折り込んでいるものの方が少ないのであって、別に取り立てて言うほどのものでもない、と今は考えています。社会を歌った歌を耳にすることはほとんど無い。逆に、もっと凄く世界に直結した歌はは沢山ある。「奇跡の地球」とか。最近だと、「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」なんてのもありました。実際に、それを愛と呼ぶのは世界ではなく、世間です。何故ならそれが愛であるのはセカイにとってではなく人であり文化にとってであるからです(しかし私はこの歌を一度も聴いたことが無く歌詞も知らないので、実際にはサンボマスターさん(名前が強そう)の言及した愛は人という種にとって普遍的な愛であるかも知れないので、もしそうだったらすいません。しかし、もちろん普遍的な愛などという概念は持ち出さずに済むなら持ち出さない方が良いです。論争の芽を育てやすいので)。
ところで、セカイ系自体の語られ方についてですが、[きみとぼく←→社会←→世界]この三段階の描き方がまず納得いかない。僕としては[ぼく←→世界]という状態があり、世界の中に君なり社会なりがあるのであって、社会を挟んでその向こうに世界があるというのが実感と食い違うのですが、どうでしょうか。社会を描くのはそれが単に作者と読者の間で共有される環境だからであって、それ以外に十分共有できている観境が存在するならそれを利用するのは単に効率的なことだと思う、まぁ、その観境が読者にとって気持ちの良すぎるものであったり安寧なものだったりするのが、色々な気持ちを呼び起こすのかも知れない、楽そうなのは羨ましいから。