右の頬を罵倒されたら、左の頬を差し出す(P)

「正しさ」とか「議論」とか「勝ち負け」とか総称的で良くなかった。もっと正確に伝えるためにはもっと特化してやらないといけない。でも細かくすればするほど読む人は減るし、なにげに現実から遠ざかるから、「日記に何かを書く」ことを「何かに働きかける行為」だと捉えるのは相当にファンタジーというか、そう考えて努力するのは難しい、というかそもそも働きかけたいとも思ってないわけで。いや、思っている。まぁでも実効があるかどうかはともかく、「そういう方向への動作」は「そういう方向への願いを表明すること」よりも、強調された意図の表明ではある。絶対に当落に影響しない投票とか。ずっと気になっているのが、「言葉の暴力」に代表される、言葉の行為性?みたいな? 実体がある、みたいな感覚が気になる。言葉による仮想の暴力と現実の暴力の区別がつかなくなると言うのは、重大な日記脳のせいではないか。日記を週に七回、1回1から2時間を費やしている"日記脳タイプ"の私は、日記を書いていない時にも脳が働かず、数値が測れないほど脳波が低下していたそうです。日記に費やしている時間はかなり控えめに申告してしまったので教授は日記が脳に与える悪影響を過大評価してしまった恐れがある。pending.話がそれた。
今のままでは議論における正しさと勝ち負けがなぜずれてしまうのか、を考えることが出来ないので、議論の分類から始める。漠然とやっても埒があかないので、正しさと勝ち負けに話を絞る。正しさと勝ち負けがずれると言うことは、正しさの目をすり抜ける「卑怯な言説」があって、それに騙される愚かな判定者がいると言うことです。ここから下に出てくる、絶対な結論があるとかないとかは誰も実際には判定できないわけだが、そう見えるかどうかと言う話なので良いのです。

時間的な制約が無く絶対な結論がある絶対主義的な議論

議論に参加している人全員がその議題に関しては絶対主義的な立場を取っており、いつかは必ず同じ結論に辿り着くと同意しており、議論に対するアプローチも方法も同じであるような議論。この場合は全員が同意するまで議論は終わらないわけで正しさと勝ち負けもずれようが無い、というかそもそも意見の相違が発生しないため議論にはならない、少なくとも勝ち負けがある議論にはならないだろうから、考える必要がない。

時間的な制約が無く絶対な結論がない絶対主義的な議論

議論に参加している人全員がその議題に関しては絶対主義的な立場を取っており、いつかは必ず同じ結論に辿り着くと同意しており、議論に対するアプローチも方法も同じであるような議論だが、実際には結論が出ない、出ないように思われる(誰に?)議論。結論が出ないし勝ち負けもないので、卑怯な言説も存在できない(正しさと勝ち負けが食い違った時のみ、それに繋がった言説を卑怯だと判じることにした)。

ここまで書いて気付いたが、時間的な制約(議論の判定者)がない、いない限り正しさと勝ち負けは食い違いようがない(食い違ったらやり直せばいいのだ)ので、明日時間的な制約について考えながらやり直す。