mixi日記

mixiが好きすぎるのであきらめてmixiについて書きます。mixiについて語るには、まずインターネットと僕ラの出会いからはじめる必要があるのです。はじまりにはインターネットがただありました。インターネットはとても漠然としていたので、僕ラはそれと向き合ってWEB日記を書くために、読み慣れた商用コラムを装うか、誰にも見せない本物日記の模倣から始めるしかありませんでした。お金を貰えるわけでもなく、インターネットは世界と繋がっているのに!! です!! それはとても無理のある行為で、普段の、自然なコミュニケーションとの間にはとてつもない断絶がありました。これを、慣れと模倣からなる学習、テクニックの積み重ねと、無償の努力をソフトウェアとして提供してくれる大勢のギークが生み出すシステムで、少しずつ埋めてきた道のりが、つまりmixiへと連なるインターネットと僕ラの歴史です。
話をわかりやすくするために、インターネット上にありながら通常のコミュニケーションの延長線上で行われる交流、掲示板とチャットについて、まずお話しします。これらが通常のコミュニケーションの延長線上にあるというのは、つまりそれが応答を基本として行われるからです。言葉のキャッチボールです。そしてそれらは特定のアドレス、場で行われますから、そのまま参加しやすいコミュニティとなりました。ただ、これらのコミュニティの問題は、それが場として固定されているために、コミュニティから抜けると同時に全てのネッ友を失ってしまう、そうでなくても共有できる場を失ったネッ友とはいずれ連絡が途絶えてしまう事です。
掲示板の問題は、自我が全てコミュニティに依存していることです。これを解消するために、直接は掲示板と関係しない場所にネット人格を作り上げる必要があります。日記人格が要請されました。平たくいうと日記を書くようになりました。しかしそれではまた応答を基本とするコミュニケーションを失ってしまいます。ここを埋めるために登場したのがトラックバック(とそれに先立つ文中リンク)です。誰かが言ったことを受けてそれに答える。誰かに向かって話しかける。これはとても自然な行為です。コミュニティに関してはそれがどこか特定の場所を占有していなくても、個人と個人を結ぶ線(リンクとトラックバック)から、各々が勝手に、仮想的に作り上げられることが判明しました。こうしてブログスフィアとテキスト系が誕生しました。
ここから先は少し飛躍します。僕が今考えているのは、ネット上の活動は、最大限出来ることをするのではなく、出来ることが減ってしまったり、制約が多くなるとしても通常のコミュニケーションを模倣する方向に進んでいるのではないか。なぜなら、その方が居心地が良いからです。ということです。
mixi上では、知り合いくらいしかまともに話を聞いてくれない、そもそも見ることも出来ない、けどその替わり安心して愚痴も書ける。関係のない人は関係ないのだから、怒る必要はない。誤りを指摘する必要もない。遠くの方で起っていることは見えないしわからない。平凡な人間なのだから特にデザインで自己を主張することも出来ないし、目立とうとする努力は実を結ばない。mixiをやっていて思うのは(殆どやってないですが)、mixiはネットワークを作り上げると言うよりも、本当は繋がっていない部分をごっそり切り落とすことで、既にもっている繋がりを浮き立たせ、明示しているのではないか、ということです。そもそも、マイミク申請は既に友人・知人である場合でしかしてはいけないので、mixiで友人を増やすのは無理です。
僕がmixiをあまり好きでなかったのは、mixiは僕がインターネットが素晴らしいと思っている所をごっそりスポイルしたシステムのように見えたからですが、それが逆に居心地の良い感じを生んでいるのではないかと思っています。