募金について

はじめに

募金が嫌いで一度もしたことがない。赤い羽根も緑の羽根もつけた記憶がないから、小学生の頃から嫌いだったんだと思う。最初に断っておくが、偽善だと思っているわけではない。お金をもらえると嬉しい。ありがたい。多ければ多いほど嬉しいし、誰にも迷惑をかけることはないから大体どんな基準から見ても募金は間違いなく善い行為だといえる。比較的に裕福なところで金を融通してどうする、もっと他に助けるべき場所があるだろう、という難癖はつけられるかもしれないと思うが、人それぞれで共感の及ぶ範囲は違うから仕方ない。
募金嫌いは楽しそうにつるんでる人たちが嫌いなのと同じ成り立ちをしていて、つまり僕がしても楽しくない事をしているのに楽しそうだから嫌い。出来ない事を出来るのは羨ましいだけだけど、やっても楽しくない事を楽しめるのは不公平だ。

募金は別にそれが嬉しい楽しいからするわけではない。募金の対象に対する共感やらが強すぎてやむを得ずするのだ、と考えると、そういう逃れたいような悲しみを感じない自分は幸運だな、となる。
今日また募金について考えたのは「募金に金額が決まってるなんて許せない。募金は善意でするものなんだから、金額を決めて半強制にするな。自由な金額を出させろ」という意見を見かけたからです。
金額が決まっていない募金は大変です。いくら募金をしても「まだ募金できる」という意味では全く募金していない人と同じ立場だからです。自由に金額を決めたいという人は、自分の善意の総量と向き合う覚悟のある人です。これが、友人の危機や、裁判費用だったりしたらそれにかかる全ての費用と、それに自分がかかわっている割合やなんかから、自分の良心と折り合う金額を見つける事が出来ますけど。

僕は税金や年金を納めていますし、自動車保険にも加入しています。募金するのは大嫌いですが、もし災害にあって匿名の色々な人からお金をもらえるなら、喜んでもらうと思います。義務や制度なら扶助や福祉を認めるのに、自由な意思によるそれは大嫌いとなると、無政府主義者失格なような気がします。なので募金についてはまた考えたい。制度は大好きです。