操作可能性が大好きな事について

浅羽通明アナーキズム」(ISBN:4480061746)。終章 日本アナーキズムの現在 --- メタ・アナーキズムの方へP278

まず、ノージックアナーキー・国家・ユートピア』、特に終章の「ユートピア」だ。ここで、ノージックは様々な理想社会の構想を、共存させるメタ・ユートピアを提唱する。個人主義共同体主義も、その他、種々の人間観、ルール、理念を唱えるユートピストが、他を侵害しない限りで実験的コミューンを営んで、その成果を宣伝し、新たな賛同者や参加者を募っていく。いわば、様々な社会思想を自由市場で競争させ、自然淘汰で優劣を決してゆこうというわけだ。

でも、アナ−キズムの、殊にエピロ−グの文章を、私が自分の思想を披瀝してるように読む人は多いみたいね。誤解招いたとしたら反省しなくちゃ。先の宮崎氏も、「メタ・アナ−キズム」構想を、氏と宮台真司氏とが合意した『広義のリベラリズム』とほとんど変わらないとか評価してる。彼らと私とは、私が「差別を肯定する」って一点でまるで違うんだけど、それを措いてもさ、石田衣良絡みで出したメタ・アナ−キズムは、日本アナ−キズムという思潮の現在の到達点を、私が思想測量して定めただけで、私が信奉する思想ではないんだよ。石田衣良に共鳴する点はないとはいえないけどね。たしか稲葉振一郎氏も、サイトか何かで、私がノ−ジックのメタ・ユ−トピア論を肯定するのには異論があるとか書いてらした。肯定してはいないですよ。はっきり、違うって書いたつもりなんだけどなあ(笑)。網野善彦の中世論と対比しながらね。

そういうコミューンが複数あったとして、それを選択する事は可能なのか、というか、コミューンは社会思想を軸に構成されているので、自分の持つ?社会思想は交換、選択可能なものなんだろうか、という所が疑問だ、と思ったのだが、これは結局社会のシステムの話で、自分にとってどのシステムが一番心地よいか、は選択可能であるように思われるので、それだったらそうだなぁ、と思いますが、どうですか。この本の転向者についての記述などを読むと自分の思想を変えるというのは大変なように見えたが、それはその理想を自分で実現する動機や必要があった人の場合であり、最初から選択肢としてそれが存在しているのなら、もっと軽いものなのか、とも思うし、ここで言われているようなメタ・ユートピアが実現しても、それでも自分はコミューンを超えて全世界を改革しなければならないと言うような思想を抱かざるを得ないような環境のコミューンがあったらどうすれば良いんだろう、とも思いました。宗教が「宗教法人」、という枠で一緒くたに括られて平然としていられるのが理解できない、というのと似た感じです。
グレッグ・イーガンの短編には、幾つもの肉体を移動する意識、事物に対する好悪を制御する機構、人格の複製&不死、などが出てきて、どれも全部欲しいし操作可能になると良い、と思いますが、ものの考え方や思想は交換したくない、というか、出来ない、感じがするので気になる。交換可能である時点で純粋なそれとは違う、と思うし、その時点の思想的に思想を交換する事が出来ないならそれは交換できないと言う事なので……。「放浪者の軌跡」では思想は物理的な範囲内にこちらの意思と関係なく影響を及ぼすものとして登場していて、それがしっくり来ます。なので操作可能性は大嫌い、という事でした。
自分の日記ばっかり書いてる人と、友人と短いメールの交換を大量にこなす人、の二つに分けられるとして僕は前者ですが、自分で選んでそうなった感じはしないのであり、どういう事なのか。これが自分で選べるならより理想に近いでしょうか。
ある時点で決意した事を時間が経っても自分に強制できるような装置は欲しいです。強い意思が欲しい、みたいな話です。