師嘗て曰く、大丈夫存心の工夫、ただ義利ノ間ヲ辨ズルニ在ルノミ、君子小人の差別、王道覇者ノ異論、すべて義と利との間に之レ有ル也、いかなるをか義と云はんとならば、内に省みて羞畏スル所有リ、事ヲ処シテ後二自ラ謙キ、是れを義と云ふべし。いかなるをか利と云はんとならば、内欲ヲ縦ニシテ外其ノ安逸二従フ、これを利と云ふべし。
(中略)
聖人君子の教、生をきらって死につき、害にはしりて利をさけ、労して逸せざれ、と云ふには非ず。聖人君子の好み悪む処も亦凡人に異ナルベカラズして、其の間惑を辨ずるにあるのみ也。

気になったのでメモ。神聖喜劇、二巻の、第二 「十一月の媾曳」P126からの引用です。神聖喜劇自体も何かから引用していて(確かこの文章は何回か引用されていて、初出のときには引用元も書いてあったんですがその箇所が見つかりません)、さらに引用内でも師の発言を引用しているので、三重の引用という事になります。
主人公の東堂さんは、「そういうことは私の虚無主義にはふさわしくない」と感じているのですが、僕は虚無主義者ではなく、虚無主義には憧れるし、「本来一切は無意味であり空虚であり」とも思っていますが、そう感じる事はない、ので気になります。教養を身につけたり善い事をしたりしたいです。セレヴ……。
神聖喜劇は異常に引用が多く、またそれらを一々解説してくれたりはしないので、読んでて疲れます。意味がわからないと読み直さねばならないからです。和歌が3ページに渡ってずらずらと列挙されているのを見た時には飛ばしそうになりました。
しかし、引用が嫌ということではなく、読んだことのない種類の文章ばかりで面白いです。直接引用元を読んだら辛くて絶対投げ出すと思いますが、引用は多いと言っても一つ一つは長くないし、地の文脈からなにを読めばいいかが推測出来るので楽というのもあります。
「十一月の媾曳」は瀬戸内寂聴さん激賞、曰く「激しくまぶしい愛と性」が描かれている、第三部の一話なのですが、ちょっと激しくまぶしい、とは思わなかった、あまり激しくないし、暗い感じなので、ちゃんと読めてないのかな、と思います。正直に言うと戯曲調の部分などはかなり滑稽に感じたのですが、どこからどこまでが喜劇として描かれているのか判然としなくてそこがまた不思議で面白い。東堂さんがトイレに行きたいのに行けず何回もそれについて考えるところや、橋本・鉢田の珍返答、

私の剃毛陰部が非難せられ見世物にせられねばならぬ理由は、どこにもないのであり、その上私の短い陰毛を即刻その場において長くすることは、誰にも(散髪屋にも医者にも)不可能なのである。

という文章等は多分そのまま喜劇を担当する部分なのだと思いますが、

「相抱かるる命」の途上のある特定の過程、そのとき私一個の四肢を七重に屈曲した総身が精気の当面放つべからざる満を持しながら極限まで縮小してゆく情況において、古来アジア大陸の某所に存在すると物の本に書かれた一種の双身歓喜天坐像の表象が、私の脳中を夢うつつと揺曳する。

がなんか笑えるのは多分僕の教養が不足し過ぎで全く意味がわからないからだと思います。たぶん、下の文章はかなりエロイ事を書いてます。前後からの推測ですが。
前に落語の笑いについて解説している本を立ち読みしていたら、笑いは緊張と弛緩から生まれる、と書いてあったのですが、神聖喜劇の文章は非常に緊張しているので少しでもそこからずれているように思われる箇所があると凄く面白く感じるのかもしれません。
もう読み始めて二週間経つのにまだ二巻中盤です……。このペースだと読み終わるのは七月の終わりになりそう。作中の時間は5巻で三ヶ月しか流れないので、ほぼリアルタイムの読書と言えます。
追記:一ヶ月で三巻ペースなので、全然リアルタイムではありませんでした。算数が苦手です。