日記について

頑張って日記を書く、と宣言するのは、つまり、意識して日記を書くことによって日記の傾向を変えたり、質を向上したり出来る、と僕が思っているから、に他ならないのですが、近頃はそのような考えは誤りではないだろうか、すくなくとも誰にでも当てはまる事ではないのだろうという気がしています。
日記は気が済むまで推敲できるし、また他の人を参考にしたり、完全にコピーしたりも出来るので、簡単に意識してコントロールできるように思われがちですが、そうではありませんでした。どれだけ時間をかけても知らない人にリファったり本の感想を書いたりカッコワライを使いこなすのは非常に困難な事なのです。日記は他のあらゆる文章と違い、むしろ身振りに近い存在ではないか、というのが僕の仮説です。
僕がリファを使いこなせないのは、どれだけ頑張っても人の目を見て話せない、というのと同種の困難ではないだろうか。朝、会社で元気良く皆に挨拶する事と、「道にダンボールが落ちていたのでどけようと思ったら猫の足だけ出ていたので凄く怖かったけどもし全部隠れていたら気付かずにどけてしまったかもしれない……とおもうとあれはあれでよかったのだと思います。こんばんは!!←挨拶」みたいな挨拶を日記の冒頭に書くのはどちらが困難か? と聞かれればどちらも同じくらい困難であるとしか答えようがありません。ですから、日記を意識して書くというのは常日頃から意識的に人間関係を築いていくのと同様に困難な行為であると思います。
また、これは日記を書き続けることによってそれが日常に近付くほど顕著に現れる傾向ですから、そのように時を経た日記は余程気をつけない限り動作が固着しその振り幅を狭めていくのだと思います。その証拠にこのような趣旨の日記を僕は何回も書いています。何回書いても飽きません。