もう二度とTOEICとか口走りたくない

「欲しいっ…!人望が欲しい…!」黒沢はそう言うんです。私も欲しいです。お金とどっちが欲しいか?と言われるとどちらも欲しい(出来るだけ沢山)としかいえませんが、お金と人望があれば50歳までは快活に行けそうな気がします。今はどっちとも絶無に近いです。
子供が欲しい、というのはどういう事なのか今ひとつ理解できないですが、もし子供がいたら彼/彼女から有る程度の尊敬と感謝、を得られるでしょうから、そういう人望の供給源としてはなかなかいけてるのではないか、そう思いました。そうでなくても彼/彼女にとって物凄く重要な存在になるはずです。子供を持つ以外に、他人にとってその様に重要な存在になることはとても難しい。少子化が進んでいるのはそういう意味でのリターンが低下している事も一つの原因ではないですか。違いますか。折角育てたのに思春期以降は蛇蝎の様に嫌われるのが当然、では余りにも酷い。
もう一つ私が今注目している人望の供給源は勿論サイバースペースです。活動時間の半分以上をディスプレイを眺める事に費やしているわけですから、既に、どちらかといえばサイバースペースの住人といえます。私は。ティプトリーの「接続された女」はもう現実です。嘘。それは全然違います。なんかSF読者っぽい事が書いてみたかった。

Linux ハッカーたちが最大化している「効用関数」は、古典経済的なものではなく、自分のエゴの満足とハッカー社会での評判という無形のものだ(かれらの動機を「愛他精神」と呼ぶ人もいるけれど、でもそれは、愛他家にとっての愛他活動はそれ自体が一種のエゴの満足だという事実を見落としている)。こういう形で機能するボランタリー文化は、実はそんなに珍しいものじゃない。ぼくが長いこと参加してきたもう一つの例は、SF ファンダムで、ここはハッカー界とちがってボランティア活動の基本的な動機をはっきり「エゴブー」(他のファンたちの間で自分の評判を高めること)だと認識している。

私がプログラムに興味を持ったのは五年位前にWindows98を買おうと思って新宿に行ったはいいが、予想外に高くて購入を諦め、帰りに寄った本屋でTurbo Linux 3.0を見つけ、ひょっとしてこれでもいいのかな?と思い購入したものの、Xのインストールが上手くいかず、しかも既にWindows95はHDから消滅していた…と言う出来事が切っ掛けですが、 それ以来、各種のディストリビューションのML、プログラミング言語のコミュニティ、あるソフトに関する日記群、そういったものに対してただただ傍観者として過ごしてきたわけです。そういうところをずっと見ていると、やはり人気者、実力者的な方々がいて、本を出したり、会社を興したり、と言う事が起こるわけで、そういうときには羨ましいような、頑張れ!と言うような気分になりますが、そういう事。
ただ、問題なのはやはり、それは「それが僕には楽しかったから」からなのであり、私はそこまでコンピュータ好きじゃないしなぁ。例えば、コンパイラは愚か、マイコンの一台も持っていないのに、頭の中でプログラムを動かしバグまで発見する、という事は到底ありえず、コンパイラなんて物凄い数持ってるし、ライブラリも沢山有るし、購入すらしているのに、滅多に動かさないので、やはりこれは根本的ななにかが…。Squeakとか凄すぎじゃないですか、だってねぇ。なんか楽しい事ない?的な発言もしたくなろうと言うものですが、それは最低ですよ。頭に摘みをつけてベクトルとかかっちり調節したい。