ユーモアについて

違和感 → 無意識での解決、がユーモアの秘訣ではないかと気付きました。「ユーモア」の一つ一つはそれのどこが面白いか、について説明を試みることが可能ですが、その説明は大抵の場合、なにかの繋がりについて述べているだけで、その上、説明されると全く面白くありません。繋がりに反射的に気付かせる事が大事なのではないか。
僕が「ユーモア」と呼んでいるのは、それと意図して、他人が面白いと感じる言動をとる、ことです。面白い人間になりたいという希望だけは捨てずにやってきたので、ユーモアの秘訣には興味があります。
ユーモアは好ましいもので、好ましく感じるよう進化してきたのにはなにか理由があるはずです。もし、ユーモアを感じることが適応に役立つ理由を説明できるなら、その説明はユーモアの正しい理解に繋がっている可能性が高いし、より面白くなるために役立つはずです。
「フレンズ」はとても面白いドラマです。「フレンズ」に限らず、シットコムに分類されるドラマは一定の様式に従っているようです。一話の中で、三つほどのストーリーラインが別々に進行し、ところどころで交差する、という様式です。物語のオチとして、あるストーリーラインの中での出来事に対し、別のストーリーラインを踏まえたコメントをする、というものがよくみられます。コメントを行った人物と、ドラマの視聴者は、両方のストーリーラインを見通しているので意味が理解できますが、コメントされる側のラインにいた登場人物は、コメントの正確な意味、が理解できません。このようなオチが上手く出来たものであるように感じるのは、そのシーンだけ見ると意味の通らないコメントが、複数のストーリーラインを組み合わせる事で意味の通るものになる、という、状況を把握していることの心地よさから来るのではないか、と思っています。
僕は妄執に囚われた(振りをしている)文章が好きですが、これも、一見すると理不尽な思考が、妄執の存在を踏まえて見ると筋の通るものとして読める、という、理解の心地よさがベースにあるように思われます。そして、その理解が、全ての人に共有されているわけではない、という点も重要です。楽屋ネタが面白いのは、楽屋ネタを理解できない人がいるからだし、共通の背景を持つ人にしか通じない話はそれだけで楽しいです。皮肉が面白いのは、皮肉られた対象がそれに気付けない、気付いても表立って反論できないような形をとっているからです。「一周回って面白い」のは、そのようにつまらないギャグが発生してしまうプロセスを見慣れて把握してしまった、そしてギャグを発した人はそれを理解していないからでは?
すると、「誰がその状況を把握できないか」を観点としてユーモアを分類することが出来そうです。理想としては、自分自身です。つまり、理想の日記は(筋の通った)妄執に囚われており、なおかつ、それをユーモアとしてコントロールした日記という事になります。妄執に囚われているだけだと変化に乏しい日記になってしまいそうなので、メタ認知は欠かせません。意識過剰には自信がありますが、妄執に囚われていないので、まず適切な妄執に囚われるところからはじめる必要がありそうです。