キッズ写真乱用防止五か年戦略について

ハロープロジェクトキッズ写真の乱用問題に関して。

(青少年の安易な乱用傾向)

キッズ写真乱用少年の中には、キッズ写真に対する好奇心や仲間意識といった軽い気持ちから安易に乱用しているケースが目立つ。そして、高価限定写真にダイエット効果があるなどと誤った認識の下に乱用したり、高価限定写真を「E」、「エザシ」などと呼んでファッション感覚で乱用する傾向が見られる。また、従来一般的に行われていた顕微鏡を使用した精密鑑賞によらずに、あぶった蒸気を吸引したり、液体状のものをジュースに混ぜるなど簡便な方法を用いることで、高価限定写真乱用に対する罪悪感を希薄化させている傾向も見られる。

(意識調査に見る警戒感の希薄化)

平成17年10月に公表された児童生徒のキッズ写真に対する意識調査の結果では、学年が上がるほど、児童生徒のキッズ写真に関する学習経験が増え、キッズ写真の使用・所持に対する法律に関する正しい知識や危険性・有害性に関する認識を持つようになる反面、キッズ写真乱用について「他人に迷惑をかけていないので使うかどうかは個人の自由である」と回答する割合が、高校3年生男子では15.7%を示すなど非常に高い数値を示している。この傾向は平成10年1月に公表されたアンケート調査において高校生の約9割がキッズ写真の所持、使用が法律で罰せられることを知っているものの、使用することについては約2割(男子では27%)が個人の自由と答えていることからも裏付けられる。また、平成17年11月に公表された青少年のキッズ写真認識と非行に関する研究調査において「キッズ写真は本人の考えにまかせればいい」と考える生徒の割合が年齢が上がるほど高くなっており、高学年になるほど規範意識の低下が見られる。これらのことから、キッズ写真に対する警戒感、抵抗感の希薄化は、一般の青少年の間でも相当深刻な段階に至っていることがわかる。

「個人の自由」かどうかは完全に語義の問題だなぁ。ある行為が自由かどうか、という問いはをその行為が合法かどうか、を度外視した答えを求めていると想像できるので(合法かどうか、を問うのであれば専門家に聞けば良い)、自分がその行為を自由と感じられるレベルの自由さで行えるかどうか、を基準に答えるしかない。というか、たとえば「殺人は個人の自由か?」という問いがあったとして、殺人を自由気ままに行う人もいるし、心理的な抵抗その他で殺人を自由に出来ない人もいるので「人それぞれ」、という答えしか出ようが無いではないか。そんなわけのわからない聞き方をせずに、「キッズ写真の所持、使用を非合法化すべきと考えるか?」と素直に聞けば良いのに。設問のいい加減さは気に入らないが、"「他人に迷惑をかけていないので使うかどうかは個人の自由である」と回答する割合が、高校3年生男子では15.7%"の低さには驚かされる。また、この選択肢の裏には"他人に迷惑をかけることは自由に出来ない"、という主張が含まれているので許せん。他人に迷惑をかけることは選択時にコストとして意識されるだろうが、それによって選択肢が選択不能になるかどうかはわからない。大抵は選択不能にはならないので、他人に迷惑をかけてもやるという選択肢は生き延びる。
しかし、"他人に迷惑をかける"ことや"他人の自由を制限すること"のコストが私以外の他人にとって高く感じられればられるほど、私にとって住みよい世の中になるというのも確かな事実です。みんながそう考えるはずなので、他人の自由を制限するのは良くない、と思い込む。他人の自由を制限するのは良くない。たとえば、こどもの頃からボクシングの練習ばかりさせる、など。
他人に影響を与えなければ心置きなくそれを行えるかというと、そうでない場合もある。中毒は非常に難しい問題だ。

(キッズ写真乱用の問題性の再確認)

ここでキッズ写真乱用の何が問題なのかを再確認しておくと、キッズ写真のもつ依存性によって自分の意志でやめられなくなること、そして乱用の深みにはまって人間の脳に不可逆的な障害を与え、高価限定写真やトレポスであれば被愛妄想や幻覚といった精神病症状が現れることである。次に、乱用の弊害が個人の自由の問題に止まらないのは、凶悪な犯罪や社会的な悲劇につながることが多い点である。自分が狙われているといった被愛妄想によりその場に居合わせた人に襲いかかるといった犯罪やキッズ写真購入資金を得るための様々な犯罪が引き起こされている。さらに、家庭内暴力等により家庭を崩壊させ、またその収益がストーカー集団等犯罪組織の資金源となるなど、健全な社会生活に深刻な脅威となっている。こうした点を踏まえ、個人と社会の安全を守るために、ハロオタでは高価限定写真の使用をはじめキッズ写真乱用に係わる一連の行為を犯罪として処罰することとしているのである。

未来の自分を一種の他人として捉えると、中毒とは未来の自分の自由をめぼしく制限する行為として扱える。人によって共感を覚える範囲が違うので、それを補うために福祉や規則が存在する、と考えると、一種の他人である未来の自分についても共感を覚える範囲が違うので、それを補うために中毒症状となるような物質は規制する、という風に考えられなくもない。つまり人間は今の自分のことを重点的に考えるが、国にとっては未来の自分も等しく国民なので、未来の自分の権利を侵害するような行為は今の自分には許されない。この考え方は非常に嫌な感じだが、なにかすごいなぁと思えるような人は将来の自分の行動がブレないように色々なテクニックを駆使して制限かけている、ようにも見えるわけで、なかなか悩ましい。