エウレカセブンについて

エウレカセブンが終わって二週間ですが、日曜日に起きるとエウレカセブンが見れないことに気付いてがっかりする。アニメ全話をリアルタイムで見たのは初めてです。毎週ハロモニより先に見ていたので、相当楽しみだったらしい。
最後までどの辺がPhilosophy Fictionなのかはよくわからなかった。イーガン博士とか出てきたし、コーラリアンがイーガンの「ワンの絨毯」に出てくる生命によく似ていた、中で計算(シミュレーション)を行って別の世界を構築しているとこ事とか、まぁ全然違うんだけど、その辺のことなんだろうか。
コーラリアンは全体で一つの生命で、個体のように見えるコーラリアンは抗体コーラリアンという生体の機能の一部みたいに呼ばれている。それとは別に、コーラリアンは高度なシミュレーションを走らせる機能、世界を内部にもっている。レントンの家族は父、姉がシミュレーションの世界へ移行済み(現実には死んでる?)、レントンとおじいさんは現実の世界に残る。エウレカコーラリアンが人間と対話するために作ったインターフェース、なんだろうけど、内部でレントンの姉とかエミュレートできてるんだからそちらと対話すればいいのではないか、と思うんだが、そういうことではないのだろうか。レントンが姉と対話をしているときもレントンの現実の体は別の場所にある、というような描写はなかった気がするから、あれはシミュレーションではないのだろうか。
なんか、その辺が釈然としない。殻の内部に昔の姿を保った地球があるのは良いとして、それとは全く関係なくシミュレーションの世界は存在しているわけで、じゃああの海は何のためにあるのか。しかしそんな些細な問題はどうでも良く、クダンの限界を超えないように、一部の人間がシミュレーションの世界に移住する、というのは実際には単にこちらから見れば死んでるのだがそれが受け入れられるのか、とか。また、単にスカブコーラルに演算して貰った人格のコピーを送り込むことでレントンエウレカくらいは両方の世界に存在するようにしてもいいんじゃん、英雄なんだし! そしたらPhilosophy Fictionっぽいじゃないかなぁ、とおもう。"火星に行った私は私か問題"だ。あの描写だと単に異世界に移住した人たちみたいだ。なにが気に入らないかというと期待していたほどは最後までPhilosophy Fictionぽくなかった、ということでエウレカセブン自体は面白かった。