津田
なぜこんなにも早く話題が円環を成すのか。その原因をよくよく探らない事にはこの日記形式はストレスから自らの尾を飲み下す蛇、或いは自傷癖をエスカレートさせる少女の如くに早々自壊への道を辿る事になりそうですネ。
猛夫
余談ですが、本当に話題に困ったら、これは真の日記書きを目指す為の修行である、等のうわ言を添えて書いたことのない/書けない種類の日記に挑戦する、というのをやりたいようです。具体的に言うと、真面目な本の真面目な感想日記、真面目な恋愛日記、社会派日記、コメントいっぱい交流日記などです。コメントいっぱい交流日記は仕方ないのでコメントも全部自分で書きます。これは日記内日記、いわば架空の日記であって本当の日記ではない、例え普段素直に日記を書いていないにしろ、日記は書いている人と直結しているものであるけれども、間に一段挟む、これはつまり日記内日記自体がハナっから現実の日記を模倣する、という目的で作られているのであって、内容に関してその方向性という一点でしか最早僕自身とは繋がっていない。という逃げ道を用意する事で真剣に本の感想を書く事が可能になるような気がするそうです。
猛夫
しかし、これは諸刃の剣、なぜそんな小細工を弄さねば、あるいは弄しても本の感想を書くことが出来ないのか。そこに注意を払わないわけにはいきません。素直に見ればこれは惰弱な自己を日記と言う薄布一枚でネットの荒波に晒すわけには行かない、防衛本能の発露であると解釈できますが、もっと悪い事に真面目に書きたいけど書けない、そんな斜に構えた自分が好き、みたいな話かもしれないのであって、安易にメスを入れると日記不全に陥るやも知れません。
猛夫
俺はこのような心理は特別なものではないと考えています。例えば、本サイトとは別にはてなで日記を書いている、というような場合。特にコンテンツに差が見られない、日記に統合してしまっても良いように思われるのもあって、それでも統合しないのは、つまり本サイトには場自体に方向を持った力が宿っているから平行して継続している、この力を有効に使えば一定の性向と質を保って更新しつづけるのに役立つわけですが、逆に考えるとこれは拘束にもなるわけです。それを嫌った先達は日記へとたどり着き自由を謳歌する一方で、自由は人間を堕落させるとして若干の規律と西洋式の強制的でシステマチックな社会性を導入した人達も居ました。それがBlogです。
猛夫
このような事情から日記とBlogの間には反目が存在していたのですが、ネット世界全体から見れば小さな違いであって、日記が自宅で寛ぐ為の薄布であるとすればBlogは屋外での作業に適した格好、ジーパンにTシャツ程度のラフなスタイルです。これに対して最も強固な守りと高揚感を誇ったのが古典的な意味でのテキスト系で、到底正気では思いつけないような文章を面白いものとして存在させる力があった、あるわけでして、しかしそれは鎧であっても場の空気によって形成される鎧ですから、王様は裸であると喝破した一人の少年によって崩壊しました。場の空気という慣用句とは裏腹に、空気とは個人の中で醸成され瓦解するものなのでその革命も各個人の中で起こりました。
猛夫
反復自体が力になるのであって、そんな分類はどうでも良いと思うかも知れないですけど、やっぱりそういうのはあって、疑うならはてなダイアリー日記おとなりページでも見てみるといいです。これが世界だと思っていましたが全然違いました。この一年で僕自身も実にはてならしい日記を書くようになったと思います。
猛夫
進化を続ける日記の未来はどこにあるのか。これは絶対に見逃せない。
猛夫
ここまでが余談でしたが長くなりましたので、本題については次回触れます。さようなら。