情動の大きさを身体への影響(を抑えたこと)で表現する

「声出して笑いそうになった」という表現が興味深かった。なぜ、この人は声を出して笑わなかったのだろう、声を出せない、出しにくいような状況に置かれていたのだろうか? たとえば、誰かのお葬式であるとか?

「(何かが面白いので)笑いすぎて椅子から落ちた」、「(映画の結末が悲しかったので)涙が止まらなかった」というのは、自身が持った情動の大きさを身体への影響を通じて表現する馴染みの深い方法で、「笑いすぎて椅子から落ちそうになった」、「涙が止まらなくなりそうになった(実際には、なんとか止めることが出来た)」というのは、同等の面白さや悲しさを表現しつつ、それを抑えこんだ意志力もまた示すことのできるいい方法だと思います。椅子から落ちたら恥ずかしいし、涙が枯れたら大変なので。ですが、「声だして笑いそうになった」に関しては、どうだろう。なぜ声を出さなかったのかが状況から明らかでないかぎり、読者の意識は、声だして笑えばいいじゃん? の方へ行ってしまうのではないだろうか?

逆に、極小の影響すらもあえて抑えることでなにが表現できるかを検討してみる。「ツボって、息吐きそうになった」、「まゆ動きそうになった」「口角、上がりそうになった」。「悲しい気持ちになりそうになった」もはや、自分の気持すらもコントロール下においている。

Google Play Musicについて

イヤフォンをしていると、なんと、周りの音が聞こえにくくなる。そして、私は歩くのがとてつもなく速いので、それほど人通りの多くない、深夜近くの大きな通りの歩道で、次々と人影を追い抜いて、またしても、たまたま二人、並ぶ形になっている間をすっと行き過ぎた、と思ったら、抜きざまに、右側の人の口が動いているように見えた。あの二人はきっと知り合いで、それほど親しくないために若干の距離を開けて歩いていたところを私が分断する形で間を通り抜けたのだろう。Google Play Musicを契約したため、長らく放棄していたイヤフォンを装着する習慣を取り戻し、そういうことが起こった。

また、Google Play MusicといえばBaby Metalなので、さっきマックで女子高生がしていた話を実録したい。二人はおそらく五十絡み、白髪交じりの男性で私が先に乗っていたエレベーターにあとから乗り込んできた。雰囲気からして、新しく来た上役についての会話だっった。「そんであのひと理系の人なんだって?」「理系っていうか、なんかオタク? なんだよね」「技術畑なの?」「いや、技術っていうか、最初はあの、Baby Metalっていう、13歳位の女の子がやってるメタルバンド、の話から始まって」「バンド? 知らないね。そんな柔らかい話だったんだ」「柔らかいっていうか、最初はそういうところから始まって」。この会話は異常に記憶に残った。おもに、柔らかい、の使い方が。

リアルさについて

物語の設定がリアルかどうか、についてはあまり興味はないし、現代を舞台にしているのであればリアルでなければないほど面白そうだな、と逆に思うくらいだが、人物の行動や心情があり得そうもないと思えてしまっては物語を楽しむのを阻害されるのでは? 突然、ゾンビが現れるようになった世界で、ゾンビに対して人間がどう反応したら自然なのか、というのはよくわからない。ゾンビが現れたことはないからです。

危機に瀕した人間が取る行動がリアルかどうかについては判断可能だが、あり得ないこと、ゾンビが現れること、に対してどう反応するのがリアルであるのかは判断が難しい。あり得ないことが起きている場合に人間がどう対応するのか観察することは出来ないので、と思っていたのですが、最近、あり得ないことに反応する人間を見ることが出来るTV番組があることを知りました。モニタリング、という番組です。この番組では、タクシーの助手席に幽霊を登場させたり、妻を全く知らない別の女性と入れ替えて、人がどう反応するか観察している。その際、タクシー運転手や他の家族の協力を得ているため、観察対象はまさにあり得ない事態、タクシーに自分しか見えない幽霊が乗っていたり、妻が全く知らない他人に入れ替わっているが他の家族は普段通りに振舞っている、という状況に遭遇している。その反応を見ていると、割と普通に適応しているな、という感じで、めちゃくちゃな事にはならない、あり得ないことが発生しても、あり得ないことが連鎖して行ったりはしないのだ、ということがわかり、がっかりする。

日記について

はてなブックマークからは日々新たな知識が手に入る。思考する際に、音声ではなくテキストや映像が頭に浮かぶ人がいる、というのを私は知らなかったし、結論が出ない、考えてもしかたのないことをくよくよ考えてしまうことを病的反芻と呼ぶのはいいアイデアに思えた。

私は、毎日往復一時間かけて徒歩で通勤している。何も手を打たないと容易に病的反芻に陥る。同じ考えがぐるぐるしている。ぐるぐるした結果として、私の場合は主に音声が浮かび上がってくる。ぐるぐるしているものは大体がしょうもない事である。比較的マシな方では、今、頑張っているゲームで何かがうまくいくこと、シーンを反芻し、最悪なパターンでは仕事上のどうしようもない問題について考え続けている。それらが浮かび上がってくるままに任せている。これは良くなかった。昔は違った。昔は日記について考えていた。日記について考える手順について詳しく説明しよう。まずは何について考えるか決める。今だったら、例えば一番に思いついたのはベッキーについてだが、ベッキーについて無意識に考えてしまうことは許容するにしても、意識的にテーマを決めるのであればベッキーは避けたほうがいいだろう。ベッキーは避けてテーマを決める。テーマを決めたら書き出しの一文を思い浮かべる。はてなブックマークを褒めるところからスタートしよう。その一文に続く文章は出てこない。なぜならまだあまり考えていないからである。仕方ないので、頭のなかで一文を繰り返し思い浮かべてみる。だから結局は反芻しているのだが、意識的に決めたテーマであるから、普段あまり考えていないことなので、思考が進む。普段はてなブックマークそのものについて考えることなんてないはずだ。思考が進む、というのが具体的にどういうことかは説明しにくいが、頭に思い浮かんでいる文章は思考のごく表面の、浅いところが文字列となって浮き出しているだけで、それ以外の認識できないところで進んでいるのだろう、と、イメージしている。十分に進むと、それが文章になって思い浮かぶ。閃いて随分と長い文章になることもあるし、何十回も同じ文章を反芻しているのでは? という場合もある。進まなくなったら、適当なところから反芻する。忘れてしまうものも多い。家についたら、思い出せるフレーズをタイプしながら適当につなげる。歩いている間に出てこなかった文章が出てくることは多くない。したがって、日記について考えるのは楽しいが、日記を書くのは退屈な作業である。歩いている間に浮かんでいた文章は常にもっといいもので、その再現として不完全だからだ。

カードが使えなくなるかと思った

数年前、シンガポールから帰国した折、銀行口座に100万円近く預金を残したままにしてしまい、いまだに苦しめられている。口座に紐付いたデビットカードがあるため、ネット通販では基本このカードを使うが、ショップによっては何故か使えない場合も多い。口座残高はネットで確認できるが、ログインには、ボタンを押すと数字が表示される小さなデバイスが必須であり、帰国当初はこのデバイスを利用可能にする手続きを怠ったため、残高が全くわからなかった。残高が確認できないデビットカードはまさに魔法のような使用感で面白かったが、不正に利用されているかもしれないという不安が高まったため、頑張って何度か銀行へ電話し、デバイスを再送してもらった。デバイスを使って残高を確認すると、アベノミクスのおかげで円換算の残高が増加しており、驚いた。

その後も、不正な海外送金へ利用されている口座があるため、デビットカードは基本海外での利用を禁止する、使い続けたい場合はその旨連絡せよ、という指示に対応したりしつつ、なんとか残高を減らしてきた。昨年の暮、カードの有効期限がまもなく切れるため、新しいカードが送付されてきた。新しいカードをアクティベートするためには銀行サイトへログインする必要があり、久しぶりにデバイスを探したのだが、驚いたことに、あれだけ苦労して手に入れたデバイスが見つからなかった。一度苦労しているので、保管場所も固定してあり、絶対になくなるはずがないのに! SMS送信でのアクティベートも試したが、国外からだからなのか、そもそも送付できなかった。デバイスをどうしても見つけたかったため、部屋を大掃除した。しかし、デバイスは見つからなかったので、古いカードの利用期限は切れ、私の口座は利用不能になった。と、思われたのだが、未練がましく、銀行サイトを眺めていると、デバイスの代わりに、携帯電話でSMSを受信することにより、ログイン出来ることがわかった。試してみると、確かにログインでき、カードのアクティベートも可能であった。そこで私にはっとひらめくものがあった。具体的には、SMSで過去にログインしたことがあったような気がした。そして、SMSでログイン出来るのであればこのデバイスはもう不要だから捨ててしまおう、と思い、即捨てた。断捨離だ! と思った。ことを思い出した。SMSでログイン出来る、ということを忘れてしまうことはないだろう、と思った。ある日の出来事であれば忘れてしまうかもしれないが、デバイスがなくてもSMSでログイン出来る、というのは確固たる事実なのだから忘れないだろう、と思った。そう思って捨てた、ということを思い出した、様な気がしたが、それがいつくらいのことなのかもわからないし、そもそもSMSでログイン出来るからといって何もデバイスを捨てる必要はないわけで、そんな事をするだろうか? という気もする。この後、部屋のどこかからデバイスが出てくればこの記憶は間違いだったことが判明するわけだが、まだ見つかってないので本当に捨てたのかもしれない。

1 : nのゲームで勝敗に揺れを作るプレイヤーの操作/キャラクターの個性

1 : nのアクションゲーム、たとえば、ダークソウル、真・三國無双ベヨネッタ、そういったゲーム、をやらない(し、上手くもない)ので、それらのゲームが上手いということはどういうことなのか、プレイヤーの操作のどこが結果に影響を与えているのか、ということを考えてみたい。

また、単純な属性の相性(土が火に強い、などの思想)を導入せずに、特定の状況への対処に有効なキャラクター(例 : 雑魚の掃討は得意だが、強力なボスは苦手)を作るにはどういった方法がありうるか、も検討したい。

プレイヤーの操作するキャラクターを"PC"、n体出てくるコンピューターが操作するキャラクターを"敵"(なんだ、敵か!?)とする。それぞれ、HP、スタミナというリソースをもち、HPが0以下になれば死に、スタミナが一定以下の場合はコストが必要なスキルを出せない。程度の前提から始める。

テクニックの効果

テクニックによって生じる有用な効果は二種類ある。

  1. 敵に与えるダメージが大きい(DPSが高まる)
  2. PCの被ダメージを低減する

キャラクターの状態

キャラクターにやられ/ガード/無敵状態があるかどうか、は非常に大きく関わるので最初に検討したい。

やられ状態

キャラクターに"やられ"状態が存在する場合、まず、"やられ"継続中に連続してヒットする攻撃を追加することでDPSを高めることができる。また、敵が"やられ"状態になることで、敵の攻撃を遮ることができるため、被ダメージも抑えられる。

敵が"やられ"状態にあることを維持するテクニック(コンボ等)は非常に重要であるし、出かかっている敵の行動を阻害するのは、攻撃が当たった感覚を演出する上でも有効だが、1 : nの状況では扱いが難しい。"やられ"状態には継続する時間的な長さ、が存在するので、特にPCがダメージを被る状況において、複数の敵から受ける攻撃によってやられ状態が継続し、システム上の対策を入れなければ、死ぬまで脱出不能になるケースが有る。また、"やられ"状態の継続に成功した場合、効果が高すぎるため、同じ条件でも極端な結果が出る。あるプレイヤーは無傷で切り抜けられたが、あるプレイヤーは一瞬で死んでしまった、ということがあり得る。

やられ状態継続能力で差をつける場合、コンボは得意だが攻撃力自体は低い、というキャラクターを設定し、やられ状態になる雑魚敵には強いが、スーパーアーマー状態(攻撃を受けても"やられ"にならない)になることが多い強力な敵相手には有効打に欠ける、という個性をつけることが可能。

やられ状態は、アクションゲームではよく見るが、見下ろしシューティングゲームや、MOBAでは導入されていないことが多い。シューティングのボスは弾を打ち込まれても攻撃をやめないし、Dota 2で"やられ"に相当するであるスタンは特殊なスキルの効果、または確率で発生する特殊効果(バッシュ)であり、連発できない。やられ状態が存在しない場合、お互いが足を止めて撃ちあった際のダメージが容易に計算可能ため、難度の設定がしやすい。

ガード/無敵回避

ガード/無敵回避を使用するテクニックは、基本的には敵の攻撃パターンを覚え、攻撃が発生するタイミングでガード/無敵回避を発生する。"やられ"と同様の問題があり、 1 : nの局面では敵の攻撃タイミングが複雑になるため、有効性が極端に下り、キャラクターの状態ではなく、位置の移動による回避のほうが有効になる。

ガード/回避能力で個性を出している例としては、モンスターハンターにおける、武器種によるガード/回避能力の差、などがある。

キャラクターの数値的な特性

防御力の概念があるゲームの場合、キャラクターが頻繁に使用する攻撃のダメージ数値、でキャラクター間の相性をつけることが可能。防御力が存在しない場合、秒間1回攻撃 100 dmgと、秒間2回攻撃 50 dmgであればDPSはどちらも100で同一だが、防御力20を差し引く場合、80と60になり差が出る。防御力の高い敵に強いキャラクターなどを設定可能。

GURPSでは"突き"属性なら防御力を越えた分を二倍などのシステムがあったのでより相性を強く出すことが可能だが、1 : nのアクションゲームでそういった要素が向いているかはよくわからない。

1 : 1の位置関係

1 : 1の位置関係について単純に考えた場合、持続的にDPS/被ダメージに影響をあたえるのは、Aの攻撃射程がBより長く、かつ、Aの移動速度がBより高い、場合である。この場合、Aは一方的にBを攻撃できる。条件が満たされていない場合、いずれ双方の攻撃が当たるようになる。

足が速く射程が長いキャラを設定した場合、1 : 1では強い(が、1 : nでは回り込まれるケースが有るためそれほど有効ではない)キャラとすることができる。

フィールドの壁や、敵キャラの移動範囲が有限に設定されている場合(つまり、ほとんどの場合)はこの限りではない。

1 : nの位置関係

1 : nの位置関係は範囲を対象としたスキルのDPSに非常に大きな影響を与える。つまり、スキルが単体の敵を目標とせずある範囲を対象とする場合、そこに含まれたm体分の敵にそれぞれに対してダメージが発生するため、ダメージ/コスト効率が、1体を対象とした場合と比較して、m倍になるためである。

しかし、これはもちろん、範囲内のすべての敵に均等にダメージが入る、という、直感的なのかどうか、よく考えるとわからないルールに基づいてそうなっているのであり、たとえば、範囲内の全員に均等に分割されたダメージ、でも、ある方向から見て奇数番目の対象にだけ大ダメージ、でも、範囲内の数が7だった時だけ全員に大ダメージ、でも別に構わないのであり、そういったスキルに加えて、そうした状況を発生させるために必要な補助スキル(移動を制限する、強制的に動かす、等)を組み合わせたり、もっと進めてパズル的なルールを持ったものを持たせていけば、色々なキャラクターに活躍の場が与えられるのでは……。

集団球技とコンピューターゲームにおけるライン、スコアについて。

最近、勉強のためにDOTA 2を練習しているんですが、DOTA 2(League of Legends等、ほかのMOBA系ゲームも)はスポーツ、特にチームで行う球技に似ている。

野球、サッカー、アメフトなどの球技では、大枠で、

  1. 集団で協力してラインを押し上げる
  2. ある点までラインを押し上げると、スコアが入る
  3. 最終的にスコアの多いチームが勝つ

という構造がある。野球で言えば進塁でラインを押し上げ、本塁まで到達すればスコア、サッカー、アメフトではボールの位置がラインとなり、敵陣の一番奥まで進めばスコア、一旦仕切りなおし。

良いプレイが直結でスコアに結びつくわけではなく、スコアになる前の戦況、ゲームの状況としてラインが存在する。

ただ、スポーツにおけるラインはボールの位置か、プレイヤーの位置として表現するしかないわけですが、DOTA 2はコンピューターゲームなのでここが非常に複雑にできている。

各陣営からプレイヤーが操作に関与できないミニオンの部隊が出撃し、中間地点で戦線を作る。お互いの戦力は均衡しているので、プレイヤーが関与しない限り戦線は動かない。プレイヤーは敵ミニオン、タワーを攻撃することで戦線を押し上げ、状況を有利にしていく。敵の本陣までラインを押し上げて破壊したチームが勝利。

単純なチームデスマッチとくらべて、ラインの押し引きにはより密なコミュニケーションが求められる、なぜなら特定の地点で押しすぎると逆に囲まれて不利になるので、ということで、プレイヤーの位置、アイテムの位置といった単純なポイントを駆け引きするのではなく、ユーザーが直接動かせないオブジェクトでラインを上手く実装して戦局を表現、陣取りにルールを寄せることでより集団で楽しく遊べるゲームが出来るのではないか。なんだか、近くそのようなTPSのゲームが出るらしいですが……。

あと集団球技はもちろん、全てのスポーツが苦手なのでDOTA 2は上手くなれそうにない。